舞台「帰って来たヨッパライ」の音楽
──よろしくお願いいたします。さっそくですがプレイリストの方、一通り聴かせていただきました。今回の舞台では、たくさんの音楽が使われているんですね。
そうですね。もっとも、ごく一部を流すだけの場面も多いですが。主に使用させていただいたのが、Coilというサイケデリック・バンドの楽曲です。
以前たまたま友人の薦めで聴いたんですが、この「The First Five Minutes After Death」つまり死後の最初の五分間というタイトルを見て、なんてミステリアスで惹きつけられる言葉なんだろうと。そこから今回の舞台の構想が浮かんだんですね。なのでこの曲を使うことだけは初めから決まっていました。
──フォーク・クルセダーズの原作のイメージとはだいぶかけ離れているように思いますが、そこからなぜ「帰って来たヨッパライ」に繋がったんでしょうか?
子供の頃、ときどきラジオから流れてくるこの歌が怖かったんです。というのも僕は母親から、普通の人たちが行く死後の世界はほとんど無に近い、虚ろで怖いものだと言い聞かされて育ちました。神様がいる美しい場所というのは、卑劣な人々によって都合よく創作された概念であると。だいたい、飲酒運転で死んだのに天国って変ですよね(笑)。
──たしかに(笑)。
父親も飲酒運転の車にはねられて死にましたから。それに、この早回し音声……。これが面白くてヒットしたのかもしれませんが、これ普通に聴いたら怖いでしょう。あきらかにまともじゃない(笑)。この歌の世界は全部この人の言葉で語られるんですけど、だから信用できない。「酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ」ってねえ。実際に目の前に天国が広がってたら、こんなことは言いませんよ。
この人の目にはきっと、本当はもっと醜悪で身の毛もよだつようなものが映っている。あるいは、そういう恐ろしいものすらも存在しないのかもしれない。虚無の中をただひたすらに漂っているのかも。そんなことばかり考えていました。
だから「The First Five Minutes After Death」を聴いたとき、そこに広がっている情景が、ぼくの中の「帰って来たヨッパライ」のイメージにぴったりとはまった。そして、それを脚本という形で出してみたくなったんです。
──なるほど。その他にもCoilの曲が四曲ほど入っていますが、どういった感じで選ばれたのでしょうか?
今回はセットもできるだけ簡素にして、具体的なものを見せないようにしました。それは舞台という表現形態からすると逆説的に思えるかもしれませんが、むしろなにもない空間だからこそ、観客がそこにいやなものを想像してしまうように書くつもりです。
音楽も、「どこまで行けばいいんだろう?」「この先をずっと行けば、そこに本当になにかがあるのかな?」と、見たこともない景色の中をさまよっているイメージのものを選びました。彼の不安が音の形を取って現れ、あちこちに朽ちた大木のように突き刺さっている。心情を盛り上げるというよりは、道の形状を音楽に作ってもらったような感じです。
──Current 93の「Into the Menstrual Night I Go」についてはどうでしょうか?
宗教的な謹厳さに満ちた神々しい救いのようでいて、ぼくはやっぱりこの曲にも不安を覚えますね。根本的に、神聖で安らぐ雰囲気みたいなのに不信感があるんでしょうね。やっぱり、そういうのは嘘だって言われ続けて育ったんで。「そっちに歩いていって、大丈夫なの?」って感じ(笑)。
ただ、そういう部分もひっくるめてCurrent 93が好きなんです。ちなみにCoilとは、お互いの作品に参加したりと交流があったようです……ちょっと曖昧ですが。そういうこともあってか、音楽性は違っても雰囲気はどこか似て感じられます。
──そして、謎多きアーティスト・耳中華さんの楽曲も使われているんですね。聴いていて、急に雰囲気が変わるのでびっくりしました。
耳中華さんの「まとめ」。すごいですよね(笑)。初めて聴いたときの衝撃が忘れられない。
でも、これも早いうちから使うことが決まっていて、脚本を書いていく上でも大きく影響を受けた曲です。というのも、この歌の極端な引き算の感覚、突き放したユーモアにむしろ背筋が冷える感じは、幼少期からぼくが思い描いてきた「死後の世界」のイメージそのままだったからです。
広漠としたスカスカの空間、上下左右も温度も明るさもない場所に、なにかを短く話している声や、具体性を欠いた音が飛び交う。その意味不明さ。まさに、ぼくにとっての「死」……というか正確には、生の世界と死の世界の狭間なのかな。
──最後に、ASA-CHANG&巡礼「2月」ですね。
この歌はもともとBloodthirsty Butchersのトリビュートに収録された「2月(February)」のカバーで、なぜかJohn Frucianteのサンプリングから始まるんですが(笑)、これも強烈なインパクトがあります。
あのギターロックが、一体どういう解釈をしたらこんな音楽になってしまうのかと最初は驚きました。しかし、ブッチャーズの抽象的な詩世界を、他者が忠実に音で表したらこうなるとも言える。それに、2月の季節感もここにはある。ASA-CHANG&巡礼にとって「ぼんやりあわく」輝いている冬の日は、こうなのかもしれないですよね。
──この曲はエンディングに流れるとお聞きしましたが、これを舞台の締めくくりに使おうと思った理由はどういったものなんでしょうか?
「帰って来たヨッパライ」は最後、神様に天国から追い出されて酔っ払いが生き返って終わりです。で今回、聴いてもらったら分かると思うんですけど、お経がビートルズになって、しまいにはなぜか「エリーゼのために」が流れて終わるんですよね(笑)。異常でしょ。
──(笑)。
死んで生き返ってハッピーエンドというのも、昔から違和感があったんです。だって一回は死んで、虚無の広がる死後の世界を見て、神様と話してきたんですよね。ものの見方が、死ぬ前とはまったく変わってしまっているはずです。このシュールな終わり方がそれを暗示しているとぼくは思います。もう以前のような正気の世界では生きられないぞと。
それで思ったのは、この「2月」のカバーは、一度死んだ者が歌う2月なんじゃないかということです。同じ街路でも夏と冬では景色が違って見えるように、普通の人とは世界の見え方が変わってしまった人が、同じ景色を見ようとしたらこうなってしまった。
脚本では直接こういうことは語らないつもりです。でも、あの世から帰って来たヨッパライは、もう別の人間になってしまっている。ぼくにはそういう確信があった。だからこの歌を流すことに決めました。お話が終わったあと、彼がどういう人間になっていて、二回目の本当の死までどういう余生を送っていくのか、そんなことを想像しながら聴いていただければと思います。
(取材/文・海馬剛三郎)