サンタクロースを教えることは罪か
昨年いっぱいはスピリチュアルや都市伝説などの世間一般では「非現実」の「嘘」だと言われていることを積極的に信じてみるというキャンペーンを行っていたのですが、約束通り2021年に現実にかえってきたので、改めて客観的に ”それら” は何だったのか報告したいと思います。
※自分のやったことを合理化するために割と肯定的に書いていますが、決して、積極的にオススメするものではありません。
非現実を学ぶことは無意味か?
つい先日、心理学の名越さんのYOUTUBEチャンネル(https://www.youtube.com/c/nakoshiyasufumiTVsecrettalk/)で「サンタクロースを信じさせるのは意味があるのか」という質問に答えている回がありました。名越さんの回答とは関係ないのですが、この時に僕自身も考えてみたのですが、一つの結論に達しました。
それが非現実であっても、要素またはメタ要素に現実との接点があれば知る意味がある。
サンタクロースについて一つ決定的なのは、その世界観が現実との接点をもつこと。つまり「サンタクロースは雪国に住んでいて、クリスマスになるとトナカイにソリを引かせて世界中の良い子たちにプレゼントを届ける」という。ここには、子供が自分が住んでいる ”ここ” とは遠く離れたどこかに思いを馳せることに接続する要素が存在している。
SFだって同じです。その中に真実でないことが含まれていたとしても、宇宙に思いを馳せるキッカケを与えることは強烈な意味でしかないと思います。
一方では、質問の意図として「いたずらに希望を与えておいてそれが嘘だったと傷つけてしまうこと」に対する疑問も含んでいるとも思えます。嘘をつくこと、誰かを傷つけることは正しいとは言えませんが、個人的には「フィクション」は、「嘘」が悪質たる由縁である "欺く" という要素とは、ずいぶん距離を置いているように思います。だから、サンタクロースの良いところと悪いとことを天秤にかける価値は十分にあると思います。
とはいえ、年柄年中子供を叱るときの理由で「サンタクロース」を使うのはよくないでしょうね。それが何らかの慢性的な戒めやモチベーションになっているようならそれが抜け落ちた時の反動はきつくなりますからね。
スピリチュアルと現実との接点とは
では、世間で邪気に扱われている「スピリチュアル」を信じることには意味があると言えるのでしょうか。
私の答えは YES です。つまり、「スピリチュアル」は現実との接点はある、ということです。
何がその接点に当たるかというと、「自分との付き合い方」、「外界との接し方」です。これらはスピリチュアルの基礎でもあります。
・一つ目の「自分との付き合い方」ですが、スピリチュアルでは 無条件に自己肯定 することが勧められます。どんなに人間として底辺であろうとも、自分はあるがままで良いのだということです。これを学ぶ過程では今自分が抱えるストレスを開放する方法やストレスを増やさない方法を実践することとなります。
実際、「瞑想」はスピリチュアルの世界から現実に輸入され、メンタルケアの方法として、世界でも広く受け入れられています。
・2つ目の「外界との接し方」ですが、外界とは自分以外の全てです、主に他人と他人との関係において起こる全てです。一言でいうと社会そのものですね。スピリチュアルでは、現実は自分が求めて描いた世界だといいます。だから、自己肯定感を高めて、ポジティブでいれば理想の世界になると。
そして、現実は映画のようで出演者もストーリーも、脚本通りに演じられているだけだといいます。つまり、自分は別にそれらは「あぁ、そういう展開ね?」と俯瞰すればよくって、それが嫌なことなら付き合わなくていいし、何が起こって気にしなくていいという。
この考えは現実離れしているものですが、ここで現実的に重要なのは、起こっていることと感情を切り離して、冷静にいること。自分がどうしたいのか考えることです。それを実行するために、目の前のことを冷たいほど無感情に観察することはとても有効です。
以上の2つですが、これを実行することでやっとスピリチュアルに入門できるのですが、個人的には現実ではここまでくれば卒業すればいいと思っています。
今説明したことは、全て現実ベースで実行することも可能ですが、現実を理解するためにフィクションを利用するのと同じように、そのほうが関心や理解を前進することが容易になることもあります。
何かを実践する時に、ただそれらを実行するだけよりも、世界観や物語がついてくるとより実感できたり、目指すものが明確になったりするので、効率よく取得するためには効果的なのではないでしょうか。
都市伝説や陰謀論は真実を知る過程に存在する
次に、都市伝説と陰謀論について、振り返ります。先ほどのスピリチュアルと違っていて、これらを信じる人は自分の内面の変化を求めているのではなく、何を信じて、どう行動すれば良いのかを探究しています。
趣味の範囲を超えて信じることにあまり意味はありませんが、僕が思うに、特に陰謀論は、人が真実を追いかけ始めると、真実に辿り着くまでの過程に現れると思っています。そこに現実味が存在します。
真実と向き合う過程は段階的で
① 情報を受け取って批判するだけ
② 真実を探そうとする
③ 理解しやすく都合のいいものを真実だと考える
④ 真実は難解で時に不都合であることを受け入れる
⑤ 真実を見出す努力をする
こんな風になっていると思います。ただ、賢い人は、いきなり④から始められたり、飛び級したりすることもありそうです。ま、僕の場合はこんな感じでしたと言った方がいいかもしれません。
陰謀論を信じてしまうのは③理解しやすく都合のいいものを真実だと考える、という状態にあります。陰謀論というのは、意外にも中に入り込んでしまえば、つじつま合わせや展開はよくできていたりします。(入り口がぶっ壊れているのですが)
だから、自分が疑問に思うことが、陰謀論によって解消できてしまう、ということが起きてしまいます。そして、理解しやすく、自分にとっても都合の良いことで構成されているので、信じてしまいやすい構造をとっているのも大きな特徴です。
ここでもう一つ言いたいことがあります。陰謀論を否定する人には2種類いるということです。段階でいうと①の人と④以上の人です。これは、全くもって異なる物です。①の人においては実は陰謀論者の予備軍です。
自分が不都合な真実と向き合って、学ぶ努力をしているか、感情論で陰謀論を否定していないか、チェックしつつ判断をしていきたいと肝に命じておきたいですね。
終わり
非現実的なことを信じることは、必ずしも、先の無い袋小路ではありません。それを使わずに先に進めるなら、それに越したことはありません。もし、それを必要としているなら、きっちり命綱をつけていくことですね。
みんな心配しますよ。(お前が言うな)