『4月になれば彼女は』
『4月になれば彼女は』という映画の宣伝をみて、これは原作を読んでからだな、と思い、2日で読んでしまった。
個人的な所感だが、この本で語られるものとは、何か明確に読者に対して訴えたいことや伝えたいメッセージがあるというようなものではなく、登場人物それぞれに様々な思いと事情があって、そこで生まれたどうすることもできない愛と情について(あるいは情事的な問題について)、であると思った。
そもそも、フィクションの恋愛小説(映画も然り)において、病気や事故によって人が死ぬという設定(そしてそれは、読者や聴衆の涙を誘おうとするような意図的な思惑があからさまに感じられてしまう)が個人的に苦手なので、そこからしてあまりいい作品とは個人的に思えなかった。筆者である人物が映画の監督や制作に携わっているというこも知っていたので、なんとなくこの本も映画になることを想定して作られたのかなと思えてしまうような設定や描写、セリフなりがあり、かなり陳腐なものだとも感じてしまった。
愛すことと愛されること、相手との間のそれに、確証をあたえるようなものは何もないし、あるべきでないとも思う。それはただ感じられる、ただ愛おしく思う、強くそう思う、それだけで成り立つべきもだ。
この愛がなくなったら、この人がいなくなったら、などといったことを考えてしまい不安になるのは当然のことで(きっと誰しもが、そういった経験をしてきたからこそ)。しかしだからといって、ほかの誰かから向けられる好意(それが真剣なものであろうと、軽薄なものであろうと関係なく)に保険をかけるというようなことはきわめて不埒なことであり、幼稚なことである。愛するその人だけをまっすぐに愛し、きちんと向き合い、受容する。それが人を愛するということであり、自分に芯を持つということでもある。
ふたりでいるときに感じる孤独。この人ではない、愛されている実感が持てない、愛している実感も持てない。すべての男女が付き合っている相手に100%満足できるわけではない。ただそれでもこの人といる、いたいと思えるのなら一緒にいればいいし、思えないのならすぐに離れればいい。この人と一緒にいたほうがいい、年齢や環境、様々なことを踏まえたうえで妥協できると覚悟を持てるのならそのひとといればいい。できないのなら、離れればいい。離れるべきである。そこには相手を傷つける要素しか生まれない。
ひとりでいるときに感じる孤独。それはどうしようもなく不安で、孤独で、寂しいもの。でもひとりなら、だれかを傷つけることはない。それに、信じることができる。まだ希望を持てる。
少し話が逸れた。
『4月になれば彼女は』について、インターネット上にあるレビューやコメントをみていると、このような感想を述べているひとがいた。
「昔付き合っていた恋人に、手紙を送るというのが理解できない。ましてや ”あなたが誰かを愛し、愛されていることを願います” というようなことを、相手の状況を考慮せずに言うのはきもちわるい」
たしかにそうとも思う。きちんと話して、お互いに納得したうえでお別れをし、恋人としての関係を終わらせた者同士であるなら、このレビューに同感できる。ただこの作品ではそうではない。むしろきもちわるいのは、昔の恋人との関係をきっちりと終わらせられずに、ほかのだれかと一緒になろうとする藤代(手紙を受け取った側の人間)だ。いま目の前に大事なひとがいるのに、かつての恋人を想い、そこで交わされた愛に執着している。結果的に目の前の大事な人を傷つけ、泣かせる。こういった人間が一番嫌いだ。
昔の恋人を想う気持ちはわかる。ふと考えてしまうこともわかる。しかし今目の前に大事な人がいるのなら、大事にしたいと思えるひとがいるのなら。そのひとを一番に考え愛するべきだ。昔にあった愛は、そこにおいてくるべきだ。自分が傷つくかもしれないといって、逃げてばかり。向き合うべきことに向き合っていない。向き合え!と、この本を読みながら言いたくなった。
この作品自体から得ることは何もなかった、とはっきり言えるが。
このようにつらつらと個人的な思考を述べたり、またここまで書いている中であれやこれやと考えを巡らせたりしている時点で、商品としてこの本は成功しているのだな、と感じる。