生涯を通しての「自己探求」とは?(夢の学び25)
「私は何者か?」「私はどのように生きれば、後悔のない人生を送れるのか?」
誰もが、この二つの問いの答えを探し求めているはずです。
たとえば、あなたがこの問いの答えを得ようと、占いにハマったとします。結局あなたは、自分の未来に起こることを知りたいのでしょう。
私は占いを否定したりはしません。私も雑誌の後ろの方にある「今月のあなたの運勢」を見て、「なるほど」と思ったりすることもあります。しかし、占いに関する私の興味はその程度のものです。
あなたが占いを通して本当に自分の未来を知りたいなら、占いの本を一冊読む程度では何もわからないでしょう。
そこでもしあなたが、自分の「今月の運勢」、「今年の運勢」を調べ、毎日の日記と運勢とを月ごと、年ごとに徹知的に比較し、その的中率を計算し、何が当たっていて、何が外れているのかを分析し、それをもとに来年一年間の自分を占い、その答え合わせと分析も翌年に行う、ということを数十年続けたとします。そうして初めてあなたは、その方法論が自分の人生にぴったり合うのか、自分が一生かけて取り組むべきものなのかが分かってくるはずです。そこまで徹底してやる「占い好き」が全体のどのくらいいるでしょう。
厳しい言い方で恐縮ですが、そこまで徹底してやるのでなければ、占いに対するあなたの興味は、自分の未来を託すほどではなく、軽い茶飲み話程度のものです。占いは、あなたの「私は何者か?」「私はどのように生きれば、後悔のない人生を送れるのか?」の問いに答えるための方法論にはなり得ないでしょう。1カ月や1年試してみたところで、ある占い師の方法がそれなりに有効かどうかを、その占い師の代わりに検証してみせた程度のことです。
仮に「占いの本」を「夢辞典」に置き換えても、同じことが言えます。あなたが、気になる夢をみて、その意味を知ろうと、手持ちの夢辞典を紐解いて、シンボルの意味を調べたとします。それで、だいたいその夢の意味を推察したとしても、まだまだ茶飲み話程度のことです。
そこでもしあなたが、毎日夢日記をつけ、入手できる限りの夢辞典をひっかき集め、すべての夢の、すべてのシンボルについて、すべての夢辞典で調べ、トータルで夢の意味を読み解く、という作業を数十年続けたとします。
そうなったら、あなたは自分がよくわかるだけでなく、少なくとも立派な「夢辞典評論家」になれるはずです。つまり、夢の意味の読み解きに関し、何がどのような理由でより良いものの考え方か、その違いがわかる人間になっているはずです。私は、そこまで徹底的にやる人間を尊敬します。
この「夢辞典」を「ドリームワーク」に置き換えても、同じことが言えます。あなたは、ある「気になる夢」の意味を知りたくて、ドリームワークにチャレンジします。もちろん、あるひとつの夢の意味を知りたいと思う背景には、「私は何者か?」「私はどのように生きれば、後悔のない人生を送れるのか?」という問いが隠れています。
そこで、ドリームワークによって、ひとつの意味が浮上してきたとします。たいていの場合、何かしらの答えが出るものです。しかし、それはあくまで「その夢の、その時点におけるひとつの意味」にすぎません。同じ夢を10年後にドリームワークしたときの意味は、また変わっていることが大いに予想されます。その意味が、10年前のものより「広くて深くて高い」なら、その変化が、端的にこの10年間のあなたの人間的成長を表します。
さて、そこでもしあなたが、10年間毎日夢日記をつけ、そのひとつひとつの夢をセルフワークし、その意味を読み解き、一ヶ月ごとに「今月の私」、一年ごとに「今年の私」を分析し、それをもとに「夢で占う来年の私」というのを導き出したとします。そうした作業を自分に徹底させ、習慣化し、それを何十年も続ければ、それこそあなたの生涯を通しての「自己探求」の方法論になるでしょう。
私は、ただ単に「継続は力なり」ということを言いたいわけではありません。ただ漫然とひとつのことを続ければいいという問題ではありません。まず、ひとつの方法論を選び、それを一度試してみて、よさそうならある程度継続してみて、さらに理論的なことも自分なりに深め、そしてそれを納得のいくまで継続し、自分のものにする、ということです。つまり、感覚、感情、理性、直観、想像力など、あらゆる能力を総動員し、その方法論を「自家薬籠中のもの」にする、ということです。
もっと言えば、あなたの存在自体が方法論を「含んで超えて」みせるということです。「含んで超える」とは、その方法論を取り除いても、まだあとに何か(もっと良いものが)残る人間である、ということです。そうでないと、道具を使うのでなく、道具に使われてしまう、ということにもなりかねません。
ドリームワーカーの中にも、そこまで徹底的にやる人は何人いるでしょうか?
占いにしろ、夢辞典にしろ、ドリームワークにしろ、結局のところ、生涯を通して自己探求に取り組める人間は、ごく一握りということなのかもしれません。