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シリーズ「新型コロナ」その50:ワクチンの隠された意図

■願望ではなく意図が現実化する

今回はこういう話から始めよう。
「現実化するのは、表面的な願望ではなく、無意識の中に隠された意図の方である」
この法則は、ちょっとややこしい概念なので、説明が必要だろう。

ある人が、「社会的に成功し、お金持ちにもなりたい」という願望を抱き、努力して実際にビジネスで成功し、経済的にも豊かになったとする。しかしその人は、結果的に脱税で捕まり、ビジネスでの成功も、財産も、社会的信用もすべてを一瞬にして失ったとする。よくあるスキャンダルだが、どうしてこのようなことが起きるのだろう。
もしこの人にとって、「社会的に成功し、経済的にも豊かになる」という願望が表面的なもので、無意識の中には「手段を問わず、常に社会から注目される人間でいること」という意図が隠れていたとしたらどうだろう。そう考えるなら、ド派手な演出で社会の注目を集める、という隠された意図でもって脱税を自分に許したのかもしれない。

因果論の立場からこのスキャンダルを解釈するなら、「調子に乗って、つい天狗になって、魔が差したんだね。自業自得だね」となるが、目的論の観点に立つなら、「この人は失ってみせるために地位や財産を築いた」ということになる。どちらが正解かはわからない。おそらく両面ある。
しかし、私たちはともすると因果論に偏りがちだ。今起きていることは、すべて過去に起こったことの結果である、と考えたがる。私たちは、「過去→現在→未来」という具合に一定方向へ流れる時間認識に安住したいのだ。その考えに立つなら、「私がこのような人間なのは、私をこの世に生み出すのに関与した過去のすべての人や環境や出来事が原因だ」となる。因果論に立脚する限り、思考はあくまで直線的で、他者依存的なものになる。
一方、目的論は「私たちが描く未来が、私たちの今の現実を作り出している」とする。つまり目的論は、「私たちの考え方次第で、未来は変えることができる。過去を変えることはできないが、過去に起こったことの意味は変えられる」とする。目的論は、私たちの直線的な思考の「死角」あるいは「落とし穴」を照らす役割を果たす。
「表面的な願望ではなく、無意識の中に隠された意図の方が現実化する」という考えは、私たちの思考の死角や落とし穴を照らそうとする試みでもある。表面に見えるものの陰に隠れた「見えないもの」、直線的な思考では見落とされてしまう円環的現象、「正解」に見えるものの陰に隠れた「不正解」・・・。

■私たちは戦争・格差・環境破壊を意図している?

さて、ユングは全人類に共通の無意識があることを想定した。いわゆる「集合無意識」あるいは「共通無意識」というものだ。その想定が正しいとするなら、その集合無意識の中にも隠された意図があると推論できる。つまり、全人類共通の「隠された意図」ということだ。ならば、今私たちの目の前に現れている現実は、この「集合無意識の中に隠された意図」が現実化したもの、ということになる。戦争も、格差も、環境破壊も、表面的には望んでいないはずなのに、無意識の中では意図している現実ということになる。
もちろん、これらと反対の状況を真剣に意図して活動している人たちもいる。つまり、平和と平等と環境保護を意図して活動している人たち、ということだ。ならばなぜそれらが現実化しないのかと言えば、その人たちは大勢をひっくり返すほど多くない、という事情による。
では、大多数の人が、表面的には平和や平等や環境保護を願いながらも、集合無意識の中では、その反対を意図しているというのか?
「その通り!」と私が言ったら、あなたは「そんなバカな!?」と思うだろうか。
疑う前に、次のことを考えていただきたい。
あなたがどれだけ真剣に平和と平等と環境保護を願おうが、世界のどこかには、いまだに戦争と格差と環境破壊がある。もちろんそれでいいわけがない。つまり、今ある戦争・格差・環境破壊は、解決すべき問題であり、平和・平等・環境保護は、問題を解決した結果実現できる状況ということだ。
となると、いかに問題を解決したらいいか、ということになる。しかも、無意識のうちに起きている問題である。
問題は無意識のうちに起きるが、無意識のままでそれを解決することはできない。だからといって、ただ意識すればいい、ということでもない。
アインシュタインが言うように、問題を作り出しているのと同じ意識の次元で、問題を解決することはできない。問題を解決するには、意識の次元を一段上に挙げる必要がある。意識の次元を上げるとは、「反〇〇」という状態から卒業することを意味する。つまりネガティブな状況もポジティブな状況も、両方を包括して、なおそれを超える意識の次元に達する、ということだ。「戦争反対」=「平和」というふうに考えているうちは、平和は訪れない。

■作用と反作用

そもそも、何が表面上の願望で、何が無意識の意図なのか。それをどうやって見分けたらいいのか。自分がどんなに表面的には「金持ちになりたい」と思っていても、意識下では「金なんか問題ではない。ただ目立ちたいだけだ」と考えているなら、どうすればそれに気づけるのか。
もっとも単純な話をすれば、作用と反作用を考えてみることだ。
物事にはすべからく作用と反作用がある。物理現象にも社会現象にもだ。平和を作用だと考えるなら、戦争は反作用になる。平等が作用だと考えるなら、格差は反作用だ。文明を作用だと考えるなら、ウイルスの蔓延は反作用だ。今、コロナ禍は明らかに文明に対する反作用として働いている。この反作用は、まさに人類の集合無意識の中に隠された意図が現実化した状況と考えることができる。その意図とは何か、読み解いてみよう。

ウイルス自体は、自然界にもともとあったものであり、それは私たちの無意識の意図が現実化したものではない。しかし、ウイルスに対する対し方とその対し方が招いた状況は、私たちの集合無意識の中に隠された意図が現実化したものだと考えることができる。
自然界にあり、人には感染しないはずだった未知のウイルスを人から人へ感染するものに変えたのも、私たちの隠された意図、その感染を全世界にまで拡大させたのも、私たちの隠された意図、その新型のウイルスの犠牲者としては高齢者や基礎疾患を持つ人が多いが、そういう状況を作り出したのも、私たちの隠された意図、医療現場を逼迫させ、感染症だけでなく、あらゆる疾患に対する医療提供を困難にしている状況も然り、効き目も安全性も不確かなワクチンによって、この状況を何とか収束させようとしているのも然りだ。

■ワクチンの「反作用」

たとえばワクチンは、困難な状況を一変させてくれるように思える。人によってはワクチンのことを「ゲームチェンジャー」などと呼ぶ。圧倒的不利な形勢を逆転させ、一挙に勝利へと導くカギだというわけだ。しかし、そのワクチンにも作用と反作用がある。私たちはどちらかというと作用の方ばかり見て、反作用はあまり真剣に見ようとしない。少なくとも平等には見ない。反作用のことを「副作用」と呼ぶのがいい証拠だ。そう、反作用はあくまで「副次的なこと」にすぎない、という認識なのだ。
そういうワクチンが、高齢者や基礎疾患を持つ者(つまり免疫力が低下している人たち)を救済するように見えて、逆にそういう人たちを狙い撃ちにするとしたら? そして、そうした状況を私たち自身が無意識的に作り出しているとしたら・・・?

すでにこのシリーズ48で紹介したように、この新型コロナワクチンに関し、厚労省は「ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について」という資料の中で、「ワクチンで感染が防げるかどうかは、分からない」とし、ワクチンを接種した人が「ワクチンの効果により発症しないが、感染してウイルスを持っている、という可能性」についても言及している。
つまり、ワクチンを接種すれば、体の中に抗体ができ、そのためその後に感染したとしても症状が出ず、感染に気づかない場合も出てくる。いわば無症状感染者と同じ状態になるわけだ。そういう人が、ワクチンを打ったからといって油断してマスクもせず市中に出歩き、人込みで飛沫を飛ばせば、容易に人に感染させることになる。
ましてや今、医療従事者に優先的にワクチン接種を行っているわけだから、その人たちが無症状感染者にならないという保証はない。そういう人が真っ先に身体の弱った患者たちと面と向かうことになる。弱った人を助けるはずの医療従事者が、逆に攻撃する立場になりかねない。ワクチンを接種した医療従事者が原因で大規模な院内感染がいつ起きても不思議ではないのだ。これはれっきとしたワクチンの「反作用」ではないか?
この反作用のことを知りながら、厚労省は明らかにそれを切り捨てている。そして、私たちもそれを容認している。いや、もう少し正確に言うなら、厚労省も「まずい」と知りながら、すでに動き出している巨大な船にブレーキをかけられないのだ。その巨大な船を操っているのは、もちろん私たちの無意識の意図だ。私たちの意識は、「知らなかった」と言うかもしれない。しかし私たちの無意識は「知りたくない」と言っているのかもしれない。これこそが、私たちの思考の「死角」あるいは「落とし穴」にほかならない。

■私たちは世界の人口を減らそうとしている

はっきり言おう。
私たちは、共通無意識の中に隠された意図として、ワクチンの普及も含めて、世界の人口(特に高齢者や病人)を減らそうとしているのだ。いわゆる「陰謀論」とは、そうした私たち自身の集合無意識の中にある意図の投影にすぎない。私たちは、自分で作り出している不利な状況を、密かに陰謀を企てている「未知の誰か」のせいにしたいのだ。だからこそ、その「未知の誰か」を必死で探し回っている。それっぽい人を見つけると、指をさして濡れ衣を着せる。そうしておけば、自分の無意識の意図は安泰だ。

恐ろしい意図だ。あなたが驚愕し、「そんなはずはない」と否定すればするほど、それは反作用である。なぜなら、もしあなたがこの話に驚かずに、「そういうこともあり得る」と認められるなら、あなたは作用と反作用の両方を意識できていることになる。驚愕し、否定するなら、それはあなたの無意識である。そして、無意識の意図は、知らず知らずのうちに現実化する。私たちは現実化して初めてそれに愕然とする。しかし、自分の無意識の成せるわざだとは認めない。認めないうちは、その状況が延々と続く。いまだにそういう状況が続いているのは、大多数の人が無意識的にそれを意図しているからにほかならない。
私たちは、そのことに気づいたなら、改めて自分に問い直すことができる。自分は作用と反作用の両方をしっかり意識したうえで、改めてそれを超えるどんな状況を意図するのか? そして、その状況を現実のものにするために、自分に何ができるのか?

さて、これを読んだあなたが、「ワクチンは打たない」と決断したとする。今度はそれが「作用」となる。実はそれによってもたらされる「反作用」もある。
あなたは、「ワクチンを打たない人間は少数派である」ことを知っている。そのうち、世の中の大多数の人間がワクチンを接種している状況になるだろう。あなたは、差別や偏見にさらされるかもしれない。一方あなたの方は、人と会うたびに「無症状感染者」を疑うようになるかもしれない。あなたは常時マスクをし、相手の飛沫を避け、うつされないか怯えることになるかもしれない。そうした状況がすべて反作用となるだろう。おそらく、そこからあなたとウイルスとの本当の折り合いが始まる。もちろん、その状況からあなたが学び取ることは、ワクチンを打った人間よりはるかに多い。
そういう意味で、ワクチンはウイルスから人間が何かを学ぶことを妨げる方向へ働く。

■作用情報と反作用情報

では、このような作用と反作用の緊迫した状況を、意識の次元を上げることで、どのように解決したらいいだろうか。

作用と反作用のベクトルは、一般的には意味が反対向きになっていると考えることができる。平和の反対は戦争、平等の反対は格差、環境保護の反対は環境破壊・・・。
一般に、判断材料が足りないか偏っている場合、人は迷う。世間が「ワクチンこそ救世主である」と騒いでいればいるほど、ワクチンに関する反作用を考えることは難しくなる。
しかし、そこは意識して反対の意味の情報がないか調べてみるしかない。「ワクチンによって、集団免疫が獲得できる」という情報を耳にしたなら、本当にそうなのか疑ってみて、「ワクチンで集団免疫を獲得することはできない」という情報も探してみるのだ。事実、先に挙げた厚労省の「ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について」という資料の中では、「(ワクチンによって集団免疫が獲得できるかどうかは)大規模な接種後まで分からない」としている。ちなみに、「インフルエンザワクチンでは、集団免疫効果はこれまで実証されていない」という指摘もなされている。
しかし、残念ながら大多数の人は、一般に流布している情報の反対の情報をわざわざ探そうとはしない。そういう情報は手に入りにくい。あらゆる情報源の源流の源流、奥の奥に眠っているからだ。たいていの人は、手近な情報をつかんで鵜呑みにする。結局それが世論を形成し、やがて集合無意識となる。

■力関係というベクトル

作用と反作用が出揃って、初めて人はより高い次元の判断を下すことができる。
ちょっとわかりにくいのは、ある種の「力関係」が反対向きになっている場合である。これはいわば上方向と下方向のベクトルが反発し合っていると考えればいいかもしれない。

ひとつ例を示そう。
和歌山県が、知事の判断によって独自の感染対策を立てて実行し、封じ込めに成功した。アメリカのワシントンポスト紙が、中央政府の指示に反して、独自の判断で成功を収めた例として、それを「和歌山モデル」と名付け、絶賛した。
https://www.nhk.or.jp/covid19-shogen/theme/theme6/442407.html

和歌山県の仁坂知事は、中央省庁経験者でもあるため、中央と地方の関係性にも精通していた。中央からくる指示は、正しい場合もあるし、地方の現状とは整合性が取れない場合もある。だから、必ずしも中央の指示に従う必要はない。生のデータは現場にこそある。それを分析すれば、独自の判断が下せる。それが知事の考え方だった。

「和歌山モデル」の成功の秘訣は、作用と反作用の両方をきちんと踏まえて判断を下した点にあるだろう。つまり、自分たちの運命を、誰か別の人間の判断に委ねるのではなく、自分たちでデータを集め、分析し、そして決断した、という点にある。集合無意識の中にある隠された意図には振り回されなかったのだ。言い換えれば、「考えることをやめなかった」「思考を他人に譲り渡さなかった」ということだ。
地方自治体の政治において、中央政府から通達されるガイドラインが「作用」だとするなら、現場で実際に起きている現象は「反作用」ということになるかもしれない。あるいは、現場で実際に起きている現象が「作用」で、中央政府からの通達が「反作用」と考えてもかまわない。いずれにしろ、そのどちらを判断材料にするかは、知事の裁量次第だ。作用と反作用のどちらか一方が正しいということでもないだろう。仁坂知事は、中央政府の考え(上向きのベクトル)と現場で日々起きている実際の現象(下向きのベクトル)の両方をきちんと見ていた、という点が重要なのだ。
一方、中央政府の言いなりになっている地方自治体は、作用と反作用のどちらが正しいかを判断しているのではなく、「力関係」を見ているにすぎない。集合無意識の中にある隠された意図は「忖度」を容認する。これこそが「思考停止」である。思考停止とは、無意識の中にある隠された意図を容認することにほかならない。

■ワクチンが学びの機会を奪う

私たちは、このコロナ禍によって、実に様々なことを日々学んでいるはずだ。いや、そうあらねばならない。それこそが犠牲者に報いる道のはずだ。
今後、ウイルスをはじめとする未知の病原体とどう向き合っていくべきか。
そもそも自然と人間との関係はどうあるべきか。
地球環境と文明との折り合いは?
世界の高齢化問題、人口増加に伴う食糧危機、水不足、資源の枯渇、気候変動・・・
課題は山積みだ。私たちがもっともっと学んで成長し、意識の次元を上げていかなければ、課題をこなすことはできない。

ワクチンは、人間の意識の成長の妨げにもなる。
もちろん、無意識の意図に動かされている限り、私たちは一歩も成長しない。成長するためには、無意識を意識化していく必要がある。無意識が無意識のままである限り、私たちの集合無意識の中に隠された意図は現実化し続ける。

ワクチンは、ウイルスが体に入ってきたと錯覚させることで(感染したと体を騙すことで)、人為的に抗体の生成を促す。そのメカニズムはおそらく、私たちの体を騙すだけではなく、意識も騙す。私たちが、ワクチンを接種することで油断し、平気でまたもとの生活に戻り、インフルエンザと同程度の犠牲者を新型コロナに関しても容認するなら、今後また何か新しい感染症が発生したとき、同じ悲劇が繰り返されることになる。
そうして私たちは何も学ばない。まったく成長しない。結局のところ、ワクチンが私たちの意識の成長も妨げる。言い換えれば、ワクチンには、ウイルスによってせっかく表面に出てきて見えやすくなった意図を、再び無意識に押し戻そうとする働きがあることになる。
それは、作用と反作用の両方の認識にもとづいて、私たちがよりトータルに物事を判断することも妨げ、作用と反作用を力関係に置き換えてしまう。それによって私たちは身体の抵抗力だけでなく、意識の抵抗力も失う。そうまさに、私たちの抵抗力は、ワクチンに騙されることによって、より高い次元で学ぶ機会を失うのだ。

一方、私たちは、意識次第で、自分たちが思い描く未来に合わせて、今何を現実化するのかを明確に意図することもできる。
さて、あなたはどちらを選ぶ?


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