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シリーズ「新型コロナ」その46:矛盾することを両立させる秘策

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■やり方はまだ他にあるのでは?

二度目の緊急事態宣言が、一部地域を除き、一カ月延長になった。
感染者は減少傾向にあるものの、「高止まり」も懸念される中、致し方ない措置なのかもしれない。相変わらず外出自粛要請、営業時短要請が続き、東京都は営業そのものの全面自粛要請も視野に入れているようだ。経済活動はますます行き詰まり、出口は見えない。
特措法の改正によって、要請に従わない者への罰則・罰金制も導入されるという。
「アメが効かないなら、ムチを強化する」という発想は、いかにも強権国家の発想だが、この「アメとムチ」作戦が、教育現場であろうが企業の人事管理の現場であろうが国家統治の現場であろうが、人の行動をコントロールできないどころか、まったく逆の効果を生んでしまうことは、私の研究テーマでもあるので、いずれ詳しく説明しよう。
簡単に言うと、人に対し、助長したい行動にはアメ(褒賞)を与え、制限したい行動にはムチ(懲罰)を与える、というのは100年近く前のやり方である。21世紀の現在は、ムチはおろかアメでさえ人の行動をコントロールできない、というのが常識になっている。実際に、アメを与えた行動がかえって弱体化してしまう、という心理学的実験さえ報告されている。コーチングの黄金律だったはずの「褒めて伸ばす」というやり方さえ通用しないことがあるのだ。

混迷する状況の中、私は思うことがある。
本当に不要不急の外出は控える必要があるのか?
本当に店舗の営業は夜8時までに終わらせた方がいいのか?
本当にそれ以外の方策はないのだろうか?

要するに、実現したいことはこうだ。
感染拡大を抑え、なおかつ最低限の経済も回していくこと。
この相矛盾する命題を、うまくバランスを取りながら両立させ、感染を収束に向かわせること。
この命題を実現させる方法は、本当に外出自粛と営業時短だけだろうか?
政府はこの方策で一定の成果を挙げていると、政策を自己評価しているようだが、それと同程度か、あるいはもっと効果のある別の方法は、本当にないのだろうか?

感染拡大防止の原点に戻るなら、個人的防御としてマスクの着用、手洗い・うがいを徹底させたうえで、人の移動を制限し、三密を避けることが基本だったはずだ。
ならば、外出を完全に止めなくても人の移動を制限でき、営業時短しなくても三密を避けられる方法とは?

■「計画的行動」と「計画的営業」

ひとつの思考実験をしてみよう。
不要不急の外出自粛を「計画的行動」に換え、営業時短を「計画的営業」に換えてみたらどうか。つまり、行動制限を少し緩める。ただし、緩め方にある秩序をもたらす。
どういうことかと言えば、個人は、出入りする店を限定し、行く頻度や時間帯も限定する。だいたい人は普段の行動範囲がある程度習慣化していて決まっている。もちろん緊急事態だから、その習慣的行動の範囲を限定する。
たとえばテレワークの人なら、自宅周辺で出入りする店を必要最低限にとどめ、自分が出かける頻度や時間帯もある程度決めておく(なるべく空いている時間帯を選ぶ、など)。通勤の人なら、勤務先のエリアで同じ行動をとる。
たとえば、行きつけの店が5軒ぐらいあって、一週間にその5軒を日替わりで巡ってランチを食べている人なら、その5回のランチを1回にし、あとはテイクアウトなり弁当なりに切り替える。たぶん、多くの人が、これに類することをすでにやっているのではないか。要は、それを意識して徹底させるだけの話だろう。
つまり、計画的・選択的行動ということだ。
店の方は、営業時間を一斉に「時短」というふうに十把ひとからげに決めてしまっては、かえって同じ営業時間帯(たとえばランチタイムなど)に人が集中してしまう。また、終業時間前後で公共交通機関が混み合う原因にもなる。そこで、たとえば地域の商店街などである程度決め事をしておいて、同じジャンルの店は営業時間帯をずらすなり、ローテーションを組むなりして、特定の時間帯に人が集中しないようにする。大人数での利用も避ける。客を常連客(会員)だけに絞って、予約制にすることで三密を避ける、という手もある。その他の時間帯はテイクアウトやデリバリーに徹する。こうしておけば、たとえば特定の商店街に、どの時間帯にも人の流れは、まばらで一定することになるだろう。
この考え方なら、夜中の時間帯もひとつの選択肢になってくるはずだ。夜中にどこかしら開いている店があるなら、夜中に働くエッセンシャルワーカーも助かる(※)。もちろん夜中に酒を飲んで騒ぐ、ということは厳に慎まなければならないことに変わりはない。
これによって、クラスターは発生しにくくなるし、発生したとしても感染経路が追いやすくなる。
つまり、計画的・選択的営業ということだ。

※実際、今夜中の時間帯に働くエッセンシャルワーカーが、食事といえばコンビニしか利用できずに困っている。
https://president.jp/articles/-/42766

「計画的行動」「計画的営業」という考え方は、人の流れを制限し、三密を避けつつ、経済をある程度回すひとつの方法として、地域ぐるみで取り組むには悪くない考えではないだろうか。
この考え方の延長線上には、公共交通機関も特定時間帯の混雑を避けるため、予約制にする、空いている時間帯の料金を安くする(あるいはポイントをつける)、という発想もある。
実は、コロナ以前から、ラッシュアワー緩和の方策として同じような試みが検討されてきたらしい。課題も多いようだが、コロナ時代を迎えて、新たな目的での再検討が望まれるだろう。
https://tetsudo-ch.com/10835755.html

■ワクチンに頼り過ぎることの危険性

「インフルエンザの流行は毎年あって、相当数の人が死んでいるのに、なぜこの新型コロナウイルスはこんなに大騒ぎするのか」といった主張をする人がいる。これも逆転の発想で言えば、インフルエンザに対しても、この新型コロナウイルスに対するぐらい毎年対策を講じていたら、死者は大幅に減らせていたはずだ。私たちはなぜそれをしなかったのか。この命題は、真剣に考える必要がある。
インフルエンザにはワクチンや特効薬があるが、新型コロナウイルスにはまだないから、だから厳しい対策が必要?
ちなみに、2018年のインフルエンザによる死亡者数は、感染が直接の死因だった人でいうと約3千人(2020年のコロナ死亡者もだいたいそのぐらい)、インフルエンザにかかったことによって慢性疾患が悪化して死亡した人でいうと、だいたい毎年1万人程度だという。インフルエンザの死亡率は、コロナの約10分の1、しかも毎年充分な量のワクチンが供給され、特効薬もあるはずのインフルエンザだが、なぜこれだけの死亡者が毎年出ているのだろう。コロナも、ワクチンの普及によって一時下火になったとしても、インフルエンザと同じような経過を辿らないと、誰が言えるのか。

私たちは、ウイルス感染症に対してワクチンに頼り過ぎていないだろうか。ワクチンに過剰な期待を抱いた瞬間に、私たちは思考停止になる。実は、それがいちばん怖いのだ。対策がワクチンという選択肢しかなくなったとき、その供給が断たれたり滞ったりしたら、別のパニックが起きるし、流行が再燃する。とたんに、ワクチンが人をコントロールする材料に化ける。ワクチンが政治的・経済的取引の材料にもなる。
逆に、ワクチンに頼らなくてもコロナを収束させることができるなら、それがノウハウとなり、同じ方策をインフルエンザに対してもとれるはずだ。私たちは賢くなるチャンスを活かせるのか、それともせっかくのチャンスを棒に振って、元の木阿弥になるのか、コロナに試されているのだ。
私たちの心掛け・考え方次第で、ワクチン以外の選択肢はいくらでもあるはずだ。
今の政治判断を、ワクチンが普及するまでの急場しのぎと考えるのか、それともワクチンと並行して継続できる普遍的な方策と考えるのかによって、国の未来はまったく別のものになるだろう。
ものは考えよう、頭は使いようである。何でも試してみない限り、人は賢くなれない。
いずれにしろ、こうした緊急事態には、平時と異なる思い切った発想の転換による柔軟な対応が要求されることに間違いはない。


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