シリーズ「新型コロナ」その43:「今、この瞬間」にできる発想の転換
■日本は相変わらず「平時」の発想でいる
コロナ禍のような「国難」に際して、日本が抱える問題の本質を、ズバリ一言で言おう。
こんな明らかな「有事」に際して、相変わらず「平時」の発想、方法論、システムの延長ないし多少の「強化」で通用すると思い込んでいることだ。
新型の感染症が蔓延しているとなれば、水際対策、検査体制の拡充、医療体制の充実、ワクチンなどの開発という具合に課題が次々に出てくるが、「そんなのはどれも厚労省の仕事だろ」とばかり、他の省庁は「我関せず」を決め込む。これも平時の発想だ。
自分の指示の出し方のまずさを、受け取る側の「誤解」と言ってのけたり、国民が外出自粛に堪えている最中に「賭け麻雀」にうつつを抜かしたり、あるいは忘年会と称して平気で大人数で会食したり。これも平時の発想だ。
医療が逼迫しているときに、全体の2割しかない国公立の医療機関は動いてくれるが、残り8割の民間医療機関にはなかなか期待できず、「お願い」するしかない。これも平時の発想だ。
https://wirelesswire.jp/2021/01/78576/
断言できるが、平時とはまったく異なる思い切った発想の転換をしない限り、コロナは収束しない。
政府も専門家も、相変わらず「感染の抑え込みか、それとも経済か」という二項対立で右往左往している。若者が外出自粛要請に応じないで出歩き続け、店舗もなかなか時短要請に応じないとなれば、法改正して罰則を設けようとする。これも平時の発想を強化しようとしているに過ぎない。
こういう有事の際には、強いリーダーシップを発揮する人間に全権を与えて国をリードさせたらどうか、といったような「強権リーダー待望論」まで登場している。同じような背景からヒットラーが登場したことを忘れてはならない。これも平時の短絡的な発想だ。
「緊急事態宣言」を出した当の政府自体が、緊急事態の真の意味を理解しているのだろうか。
それでは、諸外国のように「ロックダウン」した方がいいのか。それも「緩い統制では効果が薄いので、より強い統制にしよう」という、現状の発想の単なる「強化」にすぎない。これも発想の転換ではない。
■法改正の前にやるべきこと
もちろん現状に合わない法律は、大いに議論して、必要なら改正しなければならないだろう。それはそれとして、「発想の転換」ということを考えるなら、法改正の前にやっておかなければならないことがある。
法を改正するには一定の手続きが必要で、時間がかかる。改正してからも、それが本当に有効に機能するかどうかは、また時間をかけて検証しなければならない。法が本当の意味で効力を発揮するまでには、そうとうなタイムラグがある。そのタイムラグの間にも人は日々死んでいく。
簡単に言うと、立法は社会的ルールを作り、行政はルールを執行し、司法はルールを破った人間を処罰する。その流れがうまくいかなければ、この気の遠くなるような手続きを延々と繰り返し、ルールを練り上げていくしかない。その間にも感染症は蔓延し、人は死ぬ。
一方、発想の転換は一瞬にしてできる。そして発想を換えた瞬間から社会の変化は始まる。「そんなこと理想論だろ」と言う前に、コロナの抑え込みに成功して立派に経済活動を再開させている諸外国のやり方に学ぶべきだろう。
時間の流れを先取りしたり、未来に起こりそうなことに対して先回りして手を打つことは大いに結構だが、その「時間」という概念さえも「発想の転換」をしてほしいのだ。「延々と続く時間の流れ」という発想から「今、この瞬間」という発想に換えるのだ。
前提条件を踏まえておこう。
私たちは今、「感染症をもうこれ以上拡大させず、しかも立ちいかなくなっている経済を上向かせ、私たち自身の命と財産を守り、できれば強い統制という方法を用いずに、国全体を前向きな方向へ舵取りする」という具合に、相矛盾する状況を両立させ、ある意味現状とはまったく異なる体制(あるいは文化・習慣)を新たに創出する、という超難問に取り組んでいる。
これに対し、今この瞬間に発想を換えることで、瞬時に状況を打開するには、どうしたらいいか。
私たちに、そんな「超ウルトラ難度技」ができるのか?
確実に言えることは、今の発想では逆立ちしても無理、ということだ。
■真の「発想の転換」とは?
お断りしておくが、ここで言う「発想の転換」とは、発想Aから別の発想Bへと単純にスライドすることを意味しない。緊急事態宣言を出すことも、法改正して罰則を設けることも、スライドにすぎない。
発想Bは発想Aより進化したかたちでなければ意味がない。つまり、ヨコの発想ではなく、タテの発想だ。
解くべき問題が難問であればあるほど、発想の進化が求められる。進化とは単に「発想Bは発想Aと異なる」のではなく、「発想Bは、発想Aを含んで超えている」ということだ。この「含んで超えている」とは、具体的にどのような状態だろう。
アインシュタインの有名な言葉がある。
「問題を作り出しているのと同じ意識レベルで、問題を解決することはできない」
意識レベルを一段上げることこそが、発想の転換ということだ。意識レベルの進化がなければ、問題の解決もない。
発達心理学者のクレア・グレイブスは、より進化した意識レベルにある人たちが、どのような問題解決をするのかを実験した。
グレイブスはまず、ある集団を行動の主な拠りどころとなっているパラダイムにもとづいてグループ分けし、複数の回答があり得る問題を解決するよう求めた。すると、意識レベルが他の人より高度に発達しているだろうと思われるグループが、ほかのグループ全体が見つけ出した解決策の合計よりも多くの解決策を見つけ出したという。しかも解決方法の質は、ほかのグループよりも驚くほど優れていたという。さらにこのグループがひとつの解決法に到達するまでの平均時間は、ほかのどのグループよりも圧倒的に短かったという。
(フレデリック・ラルー著「ティール組織」より)
あるパラダイム(ものの考え方の規範)がその他のパラダイムよりも進化している、ということは、そのパラダイムがその他のパラダイムを「含んで超えている」ことを意味する。
天才が一人いれば、いかなる解決策も「含んで超えている」ような画期的な解決策を瞬時に導き出せるのかもしれない。しかし「天才待望論」を唱えていては「強権リーダー待望論」と同じになってしまう。
確実に言えることは、ある発想が他を「含んで超えている」とは、その発想がより多角的な視点を持ち、全方位的で、「より深く・広く・高い」ということだ。
一人の人間でそれが無理なら、複数人でそれを目指すしかない。そこはやはり「三人寄れば文殊の知恵」である。
■違う視点を持つ4人を集める意味
私の場合は、三人ではなく最低4人寄り集まることをご提案したい。
ただし、誰でもいいから4人以上集まればいい、という問題ではない。
4人で多角的なものの見方を実現するには、それぞれが違った視点から同じ問題を見る必要がある。
今、政府と専門分科会は、経済を何とか回したいという政府側の思惑と、感染をもうこれ以上拡大させたくないという専門家側の思惑との対立を招いている。対立したままでは結論が出ないので、「妥協」つまり双方が歩み寄るか、あるいは一方がもう一方を「忖度」するか、どちらかになる。それが図〇〇だ。
図〇●は、まったく違う視点を持つ第三の専門家が加わった場合のシミュレーションだ。
三つの集合のいずれかが交わった部分は、図〇〇が示す二つの集合が交わった部分よりも広い。さらに三つの集合のすべてが交わった部分は、深さや高さが加わって、より厳選された解決策と言えるだろう。つまり、より普遍的で、質も高いということだ。
図●●は、同じように集合を4つにした場合のシミュレーションだ。
集合をいくつまで重ね合わせればいいのだろうか。それには、ひとつの明確な目安がある。
■ケン・ウィルバーの4象限理論
「現存する世界最大の思想家」との定評があるケン・ウィルバーは、あらゆる学問分野、この世の森羅万象を統合する「インテグラル理論」の提唱・実践者であり、自身の理論をどう実践していくかについて、政治、医療、ビジネス、教育など、分野別に様々な提言を行っている。
たとえば、医療の分野にインテグラル理論を導入する場合、医学分野の専門家に限定せずに、以下の図のような4つ(4象限)の異なる分野の専門家をまんべんなく揃えて、患者の治療にあたることを推奨している。ウィルバーによれば、「実際、世界中の医療機関や保健機関において、4象限モデルが次々と採用され始めている」という(「インテグラル理論」より)。
この図を見ても、医療現場に限ってさえ、実際の医学的処置は、全体のストーリーの4分の1にすぎないことがおわかりいただけるだろう。すべての分野がバランスよく作用してはじめて、全体として医療が成立するのだ。なぜなら、人は病気や怪我だけで命を落とすわけではなく、経済状況や医療行政や心理的原因や文化的背景によっても命を脅かされるからだ。
■統合的なコロナ対策をシミュレーションする
もちろんコロナ対策は、医療現場だけに限った問題ではない。もっと広範囲で多角的で全方位的な視点で見る必要がある。
私はウィルバー理論の研究・実践者でもあり、その理論を「いじめ、虐待、ハラスメント」対策にひとつの組織論として応用した本「いじめ現象の全貌と脱却戦略」を昨年8月に上梓した(日本橋出版刊)。
その考え方を感染症対策の組織づくりに応用してみると、およそ次のようになるだろう。
先ごろ、ワクチン接種の担当に任命された河野太郎行政改革担当大臣が次のような発言をした。
「ワクチンや注射する医師は厚労省、冷蔵庫は経産省、物流は国交省、使った針などは環境省、学校を使えば文科省、自治体の関係は総務省、予算は財務省等々と調整して進めます。私はロジを担当します」と、少なくとも7省庁が絡む複雑な構図であることを明かした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3dd8a84734366c6ecbad5465fa8e1c5aacef9964
挙国一致体制で臨まなければならないことに、ようやく気付いたのか?
感染症対策としては、ごくごく一部にすぎないワクチン接種という課題ひとつをとってみても、これだけ広範囲で多角的で全方位的なのだ。
しかし、今から分厚い「省庁の壁」に風穴を開けて風通しをよくしている余裕はない。「今、この瞬間」にできる発想の転換という意味で言えば、各省庁から人を外に引っ張り出す、という発想の方が手っ取り早い。つまり、「コロナ対策タスクフォース」といった器を用意し、その器に入れるべき人員を関係省庁から任命して専任とし、特別プロジェクトチームを結成するのだ。その特別プロジェクトチームで、ワクチン接種も含めたすべてのコロナ対策の戦略立案をするのである。これこそ「有事」の対応である。
これと同じ発想を、「いじめ・虐待・ハラスメント」対策に応用した提言を行ったのが「いじめ現象の全貌と脱却戦略」だった。
私は今これを、コロナ対策に関し、民間レベルでやろうとしている。
https://taskforce.fc2.net
■4象限に偏りがあることの弊害
さて、上記のシミュレーションからはっきりわかることは、現状のコロナ対策においては、右下象限の負担がかなり大きい、ということだ。しかも、現状では明らかにこの象限がうまく機能していない。この分野を、医学畑の人に肩代わりさせるのは無理がある。なぜならこの右下象限は、医療従事者が本業に集中できるように周辺を整備する役割だからだ。院内感染を起こしたり、病院が経営破綻の危機にさらされるのも、ここがうまく機能していないからに他ならない。
もし政府と専門分科会が「感染症対策か経済か」という対立をいつまでも解決できないなら、いっそのこと経済学の専門家だけを集めて専門分科会を構成した方がいいくらいだ。感染症の専門家らが、まるで科学的根拠があるかのような、いわば「経済優先主義」の隠れ蓑のように使われるなら、それこそ民主主義の形骸化にほかならない。
しかし、いくら経済学の専門家だけを集めたとしても、だからといって感染の拡大はお構いなしで経済だけ優先させればいいかというと、結局そうはいかない。そこがミソなのだ。
経済学者とて、「経済学の視点からコロナの収束を考える」という立場にならざるを得ない。結局のところ、医療現場と市民生活の両方に目配りしながら、全体の政策を考えるしかないのだ。
どうせそうなら、なるべく各分野の専門家をまんべんなく集めるかたちで専門分科会を構成する方が何倍もいい。
これが、法改正の前に、まず真っ先にやるべき発想の転換である。
もうお気づきだと思うが、政府と専門分科会の対立は、右下象限と右上象限の対立である。つまり、全体の4分の1同士が対立しているのである。これひとつをとってみても、いかに偏った分野同士の対立かがわかるだろう。そしてこの状態がいつまでも続くなら、問題はいっこうに解決しないだろうことも明白だ。まさに、アインシュタインの言葉通りである。
左上・左下象限の専門家が欠けていることの弊害はまだある。
一般市民(特に若年層)に対して、目下のところ法的強制力もなく罰則もない「要請」というかたちで、いかに外出自粛を呼びかけるか、という喫緊の課題は、明らかに左上と左下象限に関わっている。「自粛警察」、偏見や差別、DVといった問題も当然この二つの象限に関わってくる。
これらの問題は、どう考えても個人の内面の問題であり、新しい文化・習慣をいかに作っていくか、という問題である。この二つの象限に関する課題が滞っているために、それが医療現場を圧迫していることは明らかだ。こうした問題に、医者や感染症学者、政治家や法律家がうまく対応できるとは、とうてい思えない。たとえば、偏見や差別という問題で言えば、医療従事者はむしろ被害者であり弱い立場なのだ。
特に左下象限は、実は、組織活動をするうえでもっとも重要でありながらも、意外に見過ごされている分野だ。この分野の専門家が、この4象限組織全体の取りまとめ役になれば、対立を回避し、プロジェクトがスムーズに進行し、効率のいい有意義な結果を期待できるはずだ。また、この分野の専門家は、中央行政と地方行政の橋渡し役にもなれる。いわば、感染症対策プロジェクト全体の取りまとめ役ということだ。少なくとも、右上象限(医学畑)の専門家が座長を務めるよりも、よほど理にかなっている。
ニュージーランドのアーダーン首相の大学での専攻は「コミュニケーション学」(左下象限)だったことを思い出していただきたい。まさに、全体の取りまとめ役としてもっともふさわしい専門分野を持つリーダーだったからこそ、いち早くコロナを抑え込めたのだ。
いずれにしても、右上象限(医学・疫学・感染症学など)は、感染症対策という全体のストーリーの4分の1にすぎないことが、おわかりいただけるはずだ。
■分野横断的なタスクフォースの実例
4象限とまではいかないにしろ、異なる分野の専門家を集めて分野横断的なプロジェクトチームを作るという発想は、世界的にいくつもある。
以下にその例を3つばかり挙げておこう。
〇台湾が2003年のSARSの苦い経験を活かし、「アメリカ疾病対策センター」(CDC)に倣って2004年に立ち上げた「国家衛生指揮センター」(NHCC)は、移民署・衛生署・交通部など部署を越えて作られた分野横断型の組織だ。
実は、日本にもこの手の組織を作ろうという動きがあったらしいが、政府は黙殺してきたという。
〇ドイツのブンデスリーガ(プロサッカーのリーグ)は「将来に向けたタスクフォース」を立ち上げた。その運営方針は、「それぞれのトピックを扱うにあたり、出来る限り多くの視点を考慮に含めるため、幅広い外部関係者が参加し、これまでの発展を振り返り、学際的な議論を行い、最終的には将来に向けて実現可能な道筋を決定していくことにある」という。
それに合わせた「医療タスクフォース」もすでに立ち上がっている。
〇デンマークでは、国立血清研究所が、各大学や研究所から、数学、コンピューターサイエンス、保健科学、理論物理学、疫学、統計学といった専門家と医師らを集めて専門家集団を構成し、そこで分析された結果が政治判断の根拠となっている。
今やこれが世界の常識なのだ。「世界の常識は、日本の非常識」などとタカをくくっている場合ではない。
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