あり得ないものと仲良くなること(夢の学び34)
今回は、この世に存在しないかもしれないものと仲良くなる、というお話しをしたいと思います。
あれは、おそらく私が小学校の低学年頃のことだったと思います。読書好きの私のことをよく知っている父が、一冊の本を私にプレゼントしてくれました。タイトルは忘れてしまいましたが、幼い子どもが読むにはかなり分厚い本でした。しかし、私はその分厚さにもめげず、さっそく果敢に読み始めます。その頃の私と同年代の少年が主人公の物語でした。その少年は病気がちで、寝たり起きたりをくり返しています。いわば現実の生活半分、もう半分は夢の中といった生活です。言い換えれば、現実の世界と死の世界を行ったり来たりしている状態です。私は、こういう状態の少年が、最後にどうなってしまうのかと、興味津々で毎日読み続けるのですが、あまりの長さに、ついに読み切ることができなかったのです。
大人になってから、もう一度読みたいと思い、父がタイトルを憶えているか訊ねてみたのですが、父はそのような本を私に買い与えた憶えはまったくないと言うのです。それでも私は父の記憶違いだと思い、あの手この手でその本を探すのですが、ついに見つかりませんでした。これはもはや、あの本は私の夢だったと思うしかありません。私は夢の中で、この世に存在しない本を読み続けていたのだと・・・。
そう考えて、あの当時を振り返ってみると、私はほぼ週末ごとに原因不明の高熱を出して寝込む、という生活を送っていたことを思い出しました。まさに、生と死の間を往復するというあの本の主人公と同じような生活だったのです。私は、自分の状況そのものを物語として夢の中で読まされていた、ということになります。しかし、その「読書体験」は、私にとっては間違いなくリアルなものだったのです。タイトルこそ憶えていないものの、その厚みや表紙の色合い、物語の持つ独特な肌触り、主人公の少年の存在感といったものは、今でも手に取るように憶えています。
夢はなぜそのような手の込んだ企みを仕掛けたのでしょう。
現実の厳しさ辛さを和らげるため?
自分自身や人生に絶望させないため?
自分自身を客体化させるため?
おそらくどれも少しずつ正解でしょう。
しかし、おそらくいちばん肝心な理由は、私自身のバースビジョンを見せるためだったのではないかと思うのです。
「死」をテーマにした読み終わることのない架空の本・・・これはまさに私自身が生涯をかけて読み解くべき人生の謎そのものではなかったでしょうか。
私は今まさに、かたちを換えて、この本のテーマを追究しているところです。
私たちは普段、「死」で終わりを告げる「生」を生きていると思っているかもしれません。「死」とは、自分の人生の終わりの瞬間だと・・・。
しかし、「死」は本来「生」と隣り合わせにある、という真実を、夢はあの架空の本を通して、私に伝えようとしていたのかもしれません。
実際、たとえばケン・ウィルバーは、「死」とは「生」の最後にだけ起きる現象ではなく、私たちは瞬間瞬間において「死」と「再生」をくり返しているのだと指摘しています。その真意については、ここではこれ以上触れませんが、少なくとも、私たちは誰しも、一日24時間の間に、覚醒状態、まどろみ状態、意識の(ほとんど)ない深い眠りの状態というサイクルを通して、「死」と「再生」の感覚を模擬的にくり返していることは疑いようがないでしょう。動物にもそのような感覚があるのかどうかはわかりませんが、地球上でもっとも高等な動物であるはずの私たち人間は、その感覚をもっとも深い理解のもとに経験しているはずです。私たちは、ただ単に疲れをとるためだけに寝るのではない、ということです。人生の3分の1を費やして毎日行う営為が、そんな単純なもののわけがないのです。
もし私が夢であのような架空の本を読まされたのだとしたら、しかも読了するのでなく、「終わっていない物語」だというあたりにも意味があるのだとしたら、まさにそれは「死」をも含めるかたちで「生」を考えなさい、という夢からのメッセージでもあるでしょう。
このように、夢を媒体とし、この世に存在しないかもしれない本を読むことで、「死」と仲良くする、というプロセスを経た私は、「夢」「死」「あの世」「目に見えない世界」「魂」「霊」といったものに馴染む癖がついたのかもしれません。
「夢の学び29」でフレデリック・パールズのゲシュタルト療法についてチラッと触れました。たとえば、クライアントが胃の痛みを訴えたなら、自分の胃を擬人化し、その「胃」にインタビューするかたちで胃の言い分を聞いてみることで胃痛の原因を探る、という療法です。
この手法を用い、私の「夢」あるいは「死」の言い分を聞いてみるなら、こうなるかもしれません。
『あなたたちは普段、私を除外した残りの部分だけで「生きること」あるいはこの世界を語ろうとしている。しかしそれはあまりに偏狭で部分的だ。なぜ私を含めた全体として自分たち自身を、そして自分たちの人生を語らないのだろう。部分的な認識で満足してはならない。あなたたちが、ある意味「非現実的」「非科学的」「認識の対象とするにあたらない」と思っているもの、あるいはもっとハッキリと忌み嫌っているものも含めて、全体として自分自身とこの世界を語りなさい。』
この「私」の部分を、「夢」や「死」だけでなく、たとえば「自然」「戦争」「多次元世界」「宇宙人」という具合いに置き換えたとしても、その擬人化された「私」は、同じことを言うのではないでしょうか。
あるいはもっとハッキリ「神」あるいは「悪魔」が、私たち人間に何かを言うとしたら・・・。
これは、発想の転換を促すのにうってつけの思考実験です。
皆さんもぜひ試してみてください。
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