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シリーズ「新型コロナ」その8:目的ではなく行為そのものが不道徳

■善意が仇になる悲劇

アメリカで、「自宅に3週間こもり続けていた女性が新型コロナに感染」という衝撃的なニュースが飛び込んできた。
https://encount.press/archives/39305/

シャーロット在住のレイチェル・ブランマートさんは、自宅から3週間外出しなかったにもかかわらず、新型コロナウイルスで陽性反応になった。
彼女は3週間前に薬局に出かけた以外は一度も外出せず、配達物もゴム手袋で受け取り、夫とも別の部屋で暮らすという徹底ぶりで自主隔離を貫いていた。
そんなとき彼女は、玄関に食料品を届けに来たボランティア女性と会った。ボランティア女性はその後、新型コロナで陽性と診断された。レイチェルさんは「ほとんど接触はなかった。彼女に触ってもいない。テイクアウトも食べていない」と話しているという。

これは何を意味するのか。
少なくとも、「自宅にどれだけこもっても、感染するときにはする。だからこもっても無駄である」とはならない。こもる理由は、自分を守るためだけではなく、他人を守るためでもあるからだ。
では、何を意味するか。
ひとつは、この新型コロナウィルスは、決してあなどることのできない感染力の強さを示している、ということだろう。シリーズその4の記事で、この新型コロナウィルスは弱毒性だが、サバイバル力は強い、と書いた。このサバイバル力の強さとは、感染力の強さでもあるだろう。たとえ毒性は弱くても、感染力が強ければ、そのウィルスは生き残りやすい。
この新型コロナウィルスは「弱毒性・強感染力」であることを、私たちは改めて認識する必要がありそうだ。さらに言うなら、もしこの新型コロナウィルスが変異しているとしたら、強毒性を獲得しないとも言えなくなってくる。強毒性・強感染力となったうえに、もし再活性化(潜伏期間の延長)もするとなったら、この新型コロナウィルスは最強のウィルスとなってしまう。
もうひとつは、このパンデミックは、いとも簡単に悲劇を生む、ということだ。感染するのも悲劇、人に感染させてしまうのも悲劇だ。特にこのボランティア女性は、まったく悪意(落ち度)のない感染者だった、という点が、ことさら悲劇性を助長している。無症状ないし潜伏期間中の感染者は、いとも簡単に「悪意なき加害者」になり得る。もちろん、彼女がレイチェルさん宅を訪問した目的は善意である。しかし、その善意が仇になった。すなわち、この緊急事態においては、行為の目的が正しいかどうかではなく、行為そのものが不道徳となり得る、ということなのだ。感染症の悲劇性とは、そこにある。「何とか人のお役に立ちたい」という気持ちを抑えることが、かえって感染リスクを抑える、という皮肉でもあるだろう。私たちは今、自分と人の両方の命を守るためにこもる必要がある。

このニュースから私たちが得なければならないもうひとつの教訓は、レイチェルさんの夫も、高い感染リスクに晒されている、ということだろう。たとえ自宅内隔離が実現されていたとしても、感染リスクはあなどれない。そこで試されるのは、「たとえ離れていても発揮される絆とは何か」ということかもしれない。この「愛の試練」は、夫婦間に限らない。

■「今」に対する判断力と「未来」に対する判断力

日本でも今、多くの人々が、とてつもない葛藤のさなかにいるはずだ。自分の命も他人の命も守ろうとするなら、外出せずに家にこもっていることがいちばんだ。しかしもしあなたの仕事がテレワークの成り立たない職種だったら、通勤せざるを得ない。それでも、仕事をしないことが求められている。しかしそれでは、公的補償が担保されない限り、生活は成り立たない。「命か、生活か」という究極の優先順位を突きつけられている。八方塞がりだ。
あるいは、あなたが経営者なら、あなたの葛藤はこうかもしれない。
あなたには、社員の生活を守る責任がある。そのために会社を休業できない。この時期、充分な収益が見込めないことを承知のうえで、営業を継続しなければならない。しかし、このまま社員を通勤させることは、極めて感染リスクの高い状態に社員を晒し続けることになる。たとえシフトを組んで時差通勤を実現したとしても、感染リスクがゼロになるわけではない。会社の死守か、命の尊守か・・・。

そのような葛藤を承知のうえで、私はあえて言いたい。
もしあなたが、自分の生活のため(あるいは、社員の生活のため)という理由で、不幸にも誰かに感染させてしまい、さらなる不幸にもその人が亡くなってしまったら、ましてやその人があなたの大切な人だったら、あなたはその人の墓の前で、どんな言い訳をするのだろう。
「そうは言っても、こっちにも生活(責任)があったんだ・・・」?
もしあなたが、本当に生活に困窮し、誰かの助けがなければ生きられず、その助けを行政に求められないなら、あなたが死に追いやるかもしれない人に助けを求める方が、よほどましではないだろうか。経営者が社員に対してですら・・・。経営者が、生活を保証すべき社員に対して「私にはどうすることもできないので、助けてほしい」と言える勇気が、今求められているのかもしれない。
かくいう私なら、知らず知らずのうちに人を死に追いやるくらいなら、失業する方を選ぶ。現に私は、過去にそれに類する人生の選択を経験している。
生活は後からいくらでもゆっくり立て直せる。人の命を奪ってからでは取り返しがつかない。そのために、一時誰かの力を借りることは、何ら恥じることではない。そのときに試されるのは、日頃からのあなたの人間性や社会的信頼度だ。徳を積んだ人間は、自分も人も助ける。
このパンデミックは、今現在に対する私たちの判断力と、未来に対する判断力との両方を同時につきつけている。


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アンソニー  K
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