徒然駄文2 コロナ禍で

始めますよ~っと言ってみたって、実際に手を動かさねばあっという間に飽きてしまうものだから。

日記としての要素があるのなら、やはり、後で読み返す意味のあるものであった方がよい。
日々色々あるわけだけれど、来年、再来年になって読み返すときに何が気になるだろうと思って、過去のmixi日記を読み返したところ、大学生だった頃、付き合ってた女の子のこと、就職したり、大学院に戻ったり、東日本大震災、中国に置き去りにされていきなり空白期間が出来て帰国したら雰囲気変わってたりとかで、色々思い出すのも楽しいものなのね。と。

当面、後で読み返して気になるところといえば、やはり新型コロナウィルスに関することだろう。これに関しては、個人的に思う所あって、去年の3月から色々備忘録をつけているのだけれど、そちらは、仕事環境や生活環境がどうかわって、政治がどう動き、生活から何が失われて何があてがわれたのかといったことを、後々の参考にするために記録しているものであり、今日も寝る前あたりに書き足すだろう。
ただ、こちらに書くには固いし味気ない内容なので、こちらでは記録からこぼれたような話を幾つか書いていくことにする。

個人別のコロナ対応
個人別、というか、家庭ごと、ということになるか。
仕事柄、色々な人に会う。緊急事態宣言中もほぼ365日バイクや社用車で走り回って打ち合わせや現場に立ち会うのだが、家族というか、家庭ごとにコロナ対策がずいぶん違うのだなぁと感じてきた。

一番簡単な区切りというか、分水嶺になっているのは、経済力だ。家や事務所に通してもらった瞬間にフェイスシールドが出てくるところ、アルコール洗浄液が用意されているところ、家主のほうから噴射してくるところ、色々ある。バッグやポーチに持ち運び用の洗浄液を設置している人もいるし、一番驚いたのは、所有する高層マンションのワンフロアを住居にしている資産家さんで、去年の3月からほぼ外出していないのだと言っていた。食事も買い物もデリバリー。嗚呼、格差社会。

UberEatsの自転車が走り回る一方で、コロナ禍で巣ごもりする資産や不労所得、そして安全な住居を持っている人たちがいる。お金は稼いでおくものだなと思う一方で、就職活動もままならない学生たち、店を閉めてしまった飲食店や職を失ってしまった人たち(CAだった従姉妹もクビになってしまった)も目にしてきた。感染拡大が収まらない以上は経済活動が再開できず、すわ再開となれば人手不足になり雇用も回復するだろうが、そこまで持ちこたえる経済力が無い人々も少なくない。

幸い、ポスドク問題には陥らなかったものの、院生時代は就職もできずに非常勤とアルバイトや契約社員で食いつないでいた。勤務時間が制限されてしまう分、社会保険料の支払いにも苦労した。もし、あの頃のままコロナ禍に直撃していたらと思ってゾッとしてしまう。貯金どころか、明日の食費も捻出できず、そんな状態で論文を書いたり発表したり…資料を集めるお金も学会に出向くお金も無い。そんな状態で30代が終わってしまえば、卒業したところで働き先が無い。夢も希望もなく、その日を生きるためにアルバイトをして寝るだけでは、行き詰る。生き詰まってしまう。

言い方が悪いが、そりゃ死ぬよ。と思う。
どうがんばって出られない穴に落ちてしまったような感覚は、政治家や高額所得者には勿論、アルバイト代だけで生活できたような世代には決して分からないだろう。
去年は教え子も死んだ。同僚の子どもも死んだ。若者の自殺にはついつい「まだふんばれば、或いは何とかなったかもしれないのに」と思ってしまうが、子どもの頃には子どもの頃なりの「手遅れ」があったし、焦りも絶望も感じていたことを、僕らはなぜか忘れてしまう。自分たちの頃よりも状況が悪く、そして僕らは「生存者」でもあるので途中で死んでいった人たちの気持ちは分からない部分もある。しゃらくさい連中は「生存者バイアス」とかいうんだそうだ。

コロナ禍は、誰にも容赦なく平等に降りかかっている災難である。
しかし経済的困難は、まるで水位が上がっていくように「低いところに立っている小さい人間から溺れ死ぬ」ようになっている。

この国は、よく「みんな」という言葉を使う。「みんなのため」「みんなが迷惑している」「みんなが喜ぶから」。これらの言葉は個人や少数者に苦難や忍耐を負わせるときに用いられがちだ。

更に、この「みんな」には、基本的に発言者にとって好ましい人間以外は含まれないという特徴がある。よくよく考えると酷い話だが、「みんな」の中に含まれない人がいるということは、「みんな≒仲間の中には含まれない人間が想定されている」のに「それについて言及も説明もしない」まま物事が決められていくということだ。

かくいう僕も、東京五輪の誘致が決まった時、漠然と、「みんなで観戦できたら良いなぁ」と思って、実際、やるなら金使って派手にやった方が良いとも思っていた方なのだが、国も都も、東京五輪を「みんなで観戦させる気は無いらしい」。或いは、低いところに暮らし、既に首まで水がきているような人間は「みんな」には含まれないということなのだろうか。

酷い話なんだけども、そんな連中に権力とポストを与えることになってしまったのが選挙の結果でもあるわけで、今、生き苦しい、どころか、水が迫ってきて窒息寸前の人は、その苦しさを票に託して投票所へ行く準備をしておいたほうがいい。僕がつけているコロナ下の生活記録も、そのためのデスノートでもあるのだ。

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