徒然駄文3.任意参加という強制

どうにも我慢ならないというか、我慢が苦手なことが、この「任意参加という(名の実質的な)強制」。

学校でも会社でも、町内会やら友達同士の付き合いでも、必ず出くわす「参加自由」という文字に潜り込まされた「不参加は不許可」という空気。まったくもってf〇ck offですわよ(上品に。

どこのコミュニティでもある話だけれど、企画書や募集要項には任意参加と書いてあり、実際の呼び込みでもそう叫んでおいて、挙句にわざわざ参加確認のリストをもって回ってきておいて、「じゃ、不参加で」と言ったときの「え?ありえないでしょ」「いや、不参加とかナシだから」みたいな感じ。控えめに言ってfu〇k offなのでござりますのことよ(2回目。

元々、Noと言えない日本人の模範児童だった僕は、全員参加とか強制参加の行事ごとが大概大嫌いだったし、運動会や体育大会、地区交流戦などはもってのほか。手ごろな地震でも一発お見舞いされて、うまい事お流れにならないものかと思い、てるてる坊主を地面に突き立てていたような子どもだった。

残念なことに子ども頃からバカだったので、いざ参加したらそれなりに楽しいし、思い出にも残る。バカはサイレンで泣くと偉い漫画家は書いているが、バカは運動会で盛り上がってしまう性がある。これはトラックに乗って現場仕事をしていた短い間も、今にしてもそうである。バカはお祭りに弱いのだ。

これが、文化系の大会やミーティングなら尚のこと。とりあえず盛り上がる。いいじゃないですか。お祭りは。スパロボとかキングオブファイターズとか、好きですよ。ええ。

そんな自分が、何故、かくも「任意参加という名の強制」に心をざわつかせてしまうのか。憎悪のようなものは限界中年男性となった今でも燃え滾っている。
僕に限って言えば、肥満児で運動神経も壊滅的だったので、体育なんて何をやっても周りから笑われるし、鉄棒もマット運動も、いつもどこか、レベル2か3くらいのところで出来なくなる。サッカーやバスケットなどの集団競技でエラーなんかしようものなら舌打ちである。高校までの12年間は、物心ついた自分にとって、嘲笑と憎悪を受けるための苦役の時間であった。

保育所の運動会では、走り縄跳びをしながら校庭を一周する競技で、実況係の保母さんが「見てください!nes君が走り縄跳びをしています!やればできるんです!がんばれnes君!」とかパワフルプロ煽りを受けたのも、ベヘリットが手に入り次第「捧げる!捧げるっ!」したい素敵な思い出があるあたり、羞恥プレイ人生は生まれつきなのだが、ガタイのおかげで喧嘩が強かったという一点だけでなんとか生き残ることができたガッツな僕であった。

どうでもいいが、確か3歳か4歳ころまで、母が保母をやっていて面倒を見られなかった僕は、保育所が決まるまで母の勤務先の更衣室に押し込まれていた。今にして思えば羨まけしからんあの体験の原因となった社会教育主事と大学院で研究者として対決することになった話はいつか書いてやろうと思う。

話を戻す。
要するに、辱めを受けた上に、僕の屈辱や傷心を、周りの人間は笑ったり、時には勝手に感動として回収し消費する。後になって感動ポルノという言葉で批判されることになる、この手の「おデブちゃん奮闘ポルノ」は、主演俳優にとっては結構な心痛なのである。

感動ポルノの問題点は、「可哀そうな人」が苦しんだり努力したりする様を眺めて精液のような涙を流してスッキリしたは良いものの、さっきまで感情移入していた筈の「可哀そうな人」が抱える病気や境遇に対する理解や共感を深めることなく「事が済んだら忘れてしまう」という、「快楽だけ消費しておいて、責任も理解も一切引き受けない」態度にある。

ポルノビデオに出てくる女優や男優に興奮するのは勝手だし、そういう商売なのであるが、俳優個人に興味をもって人生を共にしようなどとは思わないし、思ってはいけない。なぜなら、それはポルノであり、それがポルノというものの大原則で、本質であるからだ。

感動ポルノやフードポルノ、戦争ポルノといった言葉につく「ポルノ」とは、このような意味で使われている。だから24時間テレビや一部の「可哀そうな人」で「泣いて笑ってスッキリする番組」はポルノだと批判されるのであるが、これは「おデブはつらいよポルノ」にも言える。デブやデブの悪戦苦闘を見て勝手に感動したり笑っている連中は、一度でもそのデブに対して何かしらの責任を果たしたり手助けをしたことがあるのだろうか。そうでないのなら、人前で性器をしごいているのと同じことだ。

そして、僕も含めた多くのデブは「任意参加という名の強制」ルールによって、この「感動ポルノ」に強制出演されているのである。しかも無料で。別に整形手術のお金を出してくれるわけでもないし、豊胸なら間に合っているというのに。
そんなこんなで、食べ過ぎで胃腸を壊し、消化不良と長距離電車通学で勝手に痩せてしまった中学時代まで、僕はデブの一人として感動ポルノに参加し続けた。中高と男子校だったので、運動音痴という性質についてはただ罵声を浴びるだけの役回りになった。
そうしているうちに、任意というのなら、傷つけられ笑われ、そうであることで居場所を確保され、挙句にそれが「キャラ」だと他人から勝手に自己を定義されてしまうような場所には寄り付かない選択肢があるのではないかと思うようになった。

大学に入って、自分が割りと体が動かせること、筋肉がつきやすい事に気づいて人生を大分無駄にしたことに後悔するのと同時に、僕が自分を誤解し、卑下し、トラウマを刻み続けることになった運動会や体育大会の全員参加文化が恨めしくなっていったし、それらの一部が任意参加であったことを思い出したら余計に馬鹿らしくなった。

そんな訳で、20歳を過ぎて反抗期を迎えた僕は、任意参加と書いてあるものについては、授業であれゼミであれ、出席を取らない、出席が評価対象にならないのなら、こちらから用事が無い限り出向かないことにした。
生きやすくなったかと言えば実感はないが、自尊心どころか尊厳に傷をつけながら、無理やり自分を納得させてヘラヘラ笑ったり、そうまでしたって集団競技で足を引っ張って舌打ちされるようなことが激減した。逆に、自分の得意分野で活躍する機会が増えたし、そういう分野の活動に割く時間も増えていった。自分に自信を持てたというか、自尊心を回復できたような気すらする。

しかし、そんなことをしていれば、当然、周囲との軋轢も増えてくる。
何故お前だけ参加しないのか、とか、みんなやっているのだから、あなたもやってください。だとか。脳死しているのなら大至急病院へ行ったほうが良い。
言いたいことは分かるのだけれど、それが仕事であったり最初から強制参加だと言われていれば参加はする。任意だというから、自分の意志を示したまでだ。自分の意志を曲げて参加することで忠誠心を示したり歓心を買う必要がある時は自分から参加する。そういう必要が無いのなら付き合わない。それだけのことだ。
こんなことを言えば必ず「みんなでやることに意義がある」というアホがいるのだけれど、だったら強制参加にしろっつの。任意だといってあったのに大勢が参加したことに意義がある、と言いたいのであれば、素直に「大勢の人間が本音を押し殺して付き合わされていることに意義がある」と言えばいいだろう。綺麗ごとを言うな。

僕は、綺麗ごと自体は嫌いじゃないし、むしろ割と言ってしまうほうだけれども、綺麗ごとを言う人間が「綺麗ごとの犠牲になった人」に対してあまりに無関心であることに腹が立つのだ。

結局、僕の心の中にはドラゴン殺し大の手羽先を背負ったおデブちゃんが、未完結となったベルセルクのガッツのように、誰に慰められ、何に報われるあてもなく、ただただ暴れまわっているのである。

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