徒然駄文16:キャプテンEOとディズニーランド
ディズニーランドの中でもキャプテンEOが異質である論って、多分30代以上には割りと共通してあると思うのだ。
そもそも、ディズニーランドがアメリカのフォークロアをテーマに構成されており、そのコンセプト、設計理念には、ウォルト・ディズニーが孤独な少年時代から夢想した「全てのアメリカ人にとっての魂の故郷」のような、バイストンウェルのようなものへの憧れがある。
柳田國男もそうであったように、ウォルト・ディズニーもまた、コミュニティに包摂されなかった体験から、自分が包摂される、(自分も)無条件に受け入れられる「帰るべき場所」「ルーツ」のような空間やグループの存在を夢見たのである。
しかし、独立戦争を経て成立したアメリカには歴史や伝統といった物が希薄であり、フォークロアもまた薄弱であった。結局、中指を立てたヨーロッパから多くを持ち込む事になる。
それが良い事か悪い事か、正しいか否かは別にして、ディズニーランドはそうして、アメリカンフォークロアの立体曼荼羅として設計された。建設手法から演出は細部に至るまで拘り抜いた、それぞれのフォークロアの世界に迷い込み没入し、受け入れられ溶け込めるような仕掛けが随所に凝らされたものになっており、その辺りは能登路雅子の言う通り聖地の域である。
と、言うのが、ディズニーランドの常識、なのだけども(数日前に上司が元「中の人」であったことが発覚。未だにその辺の内部教育も確としてあるそうだ)、では、キャプテンEOの特異性はどこにあるのか。
アメリカ人のフォークロアで構成された聖地、が、ディズニーランドであるとするなら、それらは同時に、借り物で埋め尽くされた聖地、であるとも言える。
なんとなれば、多くのセクションのテーマがアメリカ以外の地域のフォークロアや娯楽作品から借用されているからである。
アメリカ人が歴史と伝統の希薄さにアタマを抱えるのは毎度の事で、なんなら、消費行動の足跡によって自らの民族性を定義しようとして生まれたのが現代美術である的な見方(村上隆)まである。
それでも、借り物への自覚は強く有り、これはアメリカ人で無くとも、何となく感じられるのではないか。
僕がキャプテンEOが大好きだったのは、あそこに行くと80年代のハリウッド映画やミュージックビデオで見てワクワクしたような「アメリカの雰囲気」が感じられて、それがたまらなく好きだったからだ。
あの濃厚な匂いは、実際に何度かアメリカに行ってみた今でも感じられなかった。向こうで聞いてまわったところ、「80年代のアメリカにもあんな場所は中々見つからないだろう。アレは当時のアメリカ人が、昔、もっと上手く行っていた時代の自分達の記憶の中の姿に立ち戻ろうとして妄想して作り出した作品」「バック・トゥ・ザ・フューチャーもターミネーターも、過去からやり直して今や未来を救う物語で、それは自分達の過去に立ち戻ってやり直そうという目的において共通、通底する。つまり、お前達が映画で見ていたアメリカはアメリカ人の想像上のアメリカだ」と言われて、なーるほどなぁと思ってしまった。
日本に来た留学生が日本のアニメの景色だけじゃなく、そこに感じる雰囲気に憧れて聖地巡礼するよ〜なものなのね。ニューヨークに行きたいかー!
で。
しかしですよ、と、言うことは、あの時期に製作されたキャプテンEOって、アメリカ人がアメリカ人の記憶によってアメリカ人の為に作り出した作品≒アメリカンフォークロアって事にならないか??
なんなら、キャプテンEOは、ディズニーランドの他のどのセクションよりも「アメリカ的」であったとさえ言える、のかなぁ、俺、年齢的にもぶっちゃけよく分かって無い筈なんだよなぁ。
ともあれ、僕がキャプテンEOに感じたあの濃厚な匂いは、他のセクションと違い、キャプテンEOがより実際のアメリカに近い部分から直接生み出された空間であったからではあるまいか。
キャプテンEOはもう無いのだけど、やっぱり、今思い出しても、あそこの雰囲気は格別なのである。大塚英志が物語マーケティングと名付けたそれは、もう一歩深く踏み込むと世界観のような概念的なものよりも質感のある体感、体験を伴うようになるらしい。
ディズニーランドとその他のテーマパークの圧倒的な差はその辺りなのだろうか。
とにかく、俺は一日中ディズニーランドの事を考えている。唐突に立喰師列伝を思い出して夕飯を食べに戻る。