聖闘士星矢の愚痴、或いは、そもそも実在しないモノへの整合性の希求、という謎のこだわりについて

物心ついてから初めてアメリカに行ったのは、90年台の初め頃だった。
どこを観光したいかと聞かれても、アメリカの地理なんて詳しくないどころか、知ってる地名といえばニューヤークとキャリフォルニアとゴッサムシティとヒルバレーとネオアメリカくらいだった。後はアレ、クイズに答えると行けるところというイメージで。

行ってみたい、というか見てみたかったのは、バック・トゥ・ザ・フューチャーや摩天楼はバラ色に、やドク・ハリウッドの中で描かれた様な明るくオシャレで楽しそうなアメリカ、であった。初めてディズニーランドに行って以来、ずっと好きだったキャプテンEOで感じた「匂い」が、本場アメリカでならばより濃厚に味わえると思っていたのである。

結果から言えば、その目論見は頓挫した。
何度かアメリカには行って、所々見て回ったり旅行もしたけれど、そんな景色も空気も「現実のアメリカ」には「無かった」のである。

後になって、向こうの知人と話す中で、あの年代のハリウッド映画の中で描かれたアメリカとは、アメリカ人が記憶と願望と現実の葛藤の中で「そうあれかし」と祈って描かれた「想像の中のアメリカ」であると知った。思えば、キャプテンEOもあの時代の空気の中で生まれたものであり、また、ヨーロッパからの借り物だらけの「ニセの記憶」の集積である聖地としてのディズニーランドにあって、ほぼ唯一の「アメリカ人の手で紡がれた御伽噺」がキャプテンEOなのであった。そうであるからこそ、日本人だけでは無く恐らく世界中のハリウッド映画ファンがキャプテンEOに懐かしさを感じるのである。80年代を生きた僕らにとって、キャプテンEOは魂の地元なのである。

そして、魂の地元としてのキャプテンEOもヒルバレーもTAKE ON MEのミュージックビデオも、実際のアメリカには実在しない景色である。それは、イマジネーションの中にあり、そうであるからこそ、時代と場所を越えてアクセス可能な故郷なのである。

で、聖闘士星矢の話なんですけれども。

実写化という時点で嫌な予感以外しなかったので、非難も悪口も省略しますけれども、一点だけ、致命的なズレを指摘するのならば、この映画が、「イマジネーションの中の聖地」としての『聖闘士星矢』というマンガを、アニメを、フィギュアやおもちゃの事を、全く見落として作られた映画だという事だろう。

実在しない、別次元にあるとも言える日本やギリシャを舞台に活躍する実在しないキャラクター達の物語である『聖闘士星矢』は、僕らが憧れたハリウッド映画やミュージックビデオの中の架空のアメリカと同じで、良くも悪くも解像度の低い、その分を憧れと情熱と好奇心で埋めた事で独特の輝きを放つ様になった代物である。憧れたって何になる、居やしないのさそんな人ぉ、おー🎵ってなもので、そりゃもう風になるしか無いのだ。

だから、この手の作品をどんな形であれリメイクや再開する際には、科学考証や歴史考証や最新のトレンドと言った現代の現実との擦り合わせだけでは無く、魂の古さとしての、その作品が引き受けて来たイマジネーションの所在に忠実でなければならない。これを怠った実写化やリメイクが蛇蝎の如く嫌われるのは、故郷を勝手に再開発されて「見知らぬ景色」に変えられてしまう様なものだからである。

ある作品がなぜ人気を博し、ブームや社会現象にまでなったのか。そう言った点に注目して今再びその御利益に肖ろうとするのであれば、作品単体でなく、その時代背景や環境音、匂いの様なものまで可能な限りつぶさに掬い取らねばならないし、そうでもしなければ、「あの頃、何に感動して熱中したのか」分からなくなるどころか想像すら出来なくなる。だから実写化やリメイクに、「コレじゃない」が頻発するのだ。そもそも、他人様の故郷を雑な解釈で再開発するなど、不誠実を通り越して暴力的、横暴というものである。想い出をビジネスにするのなら、せめてこの点については誠実であって欲しい。

本質を見落とす、とはこう言う事を言うのではないか。海原雄山の様な事を言いたくなったので、ついでに『美味しんぼ』からもう一言借りてくる事にする。

なんちゅうもんを食わせてくれたんや。

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