徒然駄文4.わるいことば
明日は書けなさそうなので、スーパーカブが始まる前にもう一本書いておこう。
悪い言葉を覚える瞬間がある。
子どもの頃は、ババアだのぶっ殺すだの、まぁ、喋ってるだけでバカがバレるような言葉を覚えては、恐る恐る使ってみたものである。タバコや酒と同じで、火遊びのようか感覚で使った悪い言葉は、案外直ぐに使わなくなってしまう。背徳感もスリルも、そこまでは長持ちしないのだ。
僕は20代中ごろで大学院に戻るまで、小説を全く読まなかった。読むのは教科書や専門書、そしてマンガくらい。小説はファム&イーリーやスレイヤーズで挫折して以来、自分にはちょっと早いかなと思っていた。例外といえば、『青の騎士ベルゼルガ物語』なのだが、なぜ読めたのかは、読んだことのある人なら大体察しが付くのではなかろうか。
難しい本には、マニアックな知識と、知るだけで気分が高揚するような技術や情報、そして、珍しい罵詈雑言が書いてある。
英語が得意だというわけでもないのに、厳つい響きの英単語や外来語だけ覚えたがるようなノリで、こういった言葉には昔からすぐに飛びついてしまう。
大塚英志『おたくの精神史』という本に出合ったのは大学生に入ったばかりの頃だったと思う。この本に痺れた僕は、あながち無関係な話だけでもなかったこともあり(のちに同じ大学で働くことになるのだが)、珍しく2,3周、この本を読み続けた。これがまた色々な意味で難しい本で、書いてある記事は殆どが大塚英志の記憶に頼ったもので、一部は当時なんでもないただの学生であった僕にも「あれ?事実と違うぞ」と思ってしまったほどだ。この手の話は、界隈の研究者の人たちと知り合うようになった後で色々聞かされることになるのだが、大学生時代の僕は、ともあれ、その語り口と視点とに酷く共感し、大塚英志の本を買い集め、読み漁った。で、『物語消費論』のあとに『ぼくは天使の羽を踏まない』を読んでしまったあたりで、なんとなく飽きたというか、手の内を見せられ過ぎてしまったような気がして熱が冷めたのだった。
僕が大塚英志に惹かれた最大の理由は、多分、彼の文章には、僕が当時憤っていたり、傷つけられていた様々なものに対する「批判のことば」が含まれていたからだ。大塚英志の言葉は僕の武器になり、その視座は僕の戦闘技術になった。
そして20代後半から、論文を書かなければにっちもさっちもいかない状況になったことと、司書のアルバイトを始めたことも重なって、劇的に読書量が増えたのだが、僕の中の疑問や不満、怒りや喜びや悲しみを表現するのにぴったりな言葉や、美しかったり露悪的であったりするように飾り立ててくれる言葉にもたくさん出会えた。いびつかも知れないが、これも読書の楽しみの一つだ。
赤ちゃんが夜泣きするのは、寝ている間に脳の神経が発達してつながり、その不快感で泣き叫ぶのだという。脳の神経がある程度発達し、夜泣きをしなくなった子どもは間を置かず喋り始めるようになる。自分で認識した物体や感情を言葉に結び付けるようになるのだ。
思えば、自分の感情や意思をそれなりに言葉で言い表せるようになったのはいつ頃のことだったろうか。あの日、マンガやアニメの悪役や口の悪い主人公が放った言葉に、「俺の荒れ狂うこの感情を表現するのはコイツしかねぇぜっ!」とバカりに飛びついたのも、そういう発見と出会いの感動が背後にあったのかもしれない。
どういうわけか、人に物を教える立場になってから、「何も言わない人」「意見を言わない人」の中には、自分の感情や意見を適切に表現できる言葉や概念を探している人がいることに気が付いた。
そういう人たちに言葉を出会わせることが、今は僕の仕事の一つになっているのかもしれない。
表題の「わるいことば」は、例えば、この文章中に、世の中や誰かに対してぶっ放す弾丸にしてやりたいフレーズがあれば、それが「わるいことば」というやつだ。「わるいことば」の「わるさ」の由来には、人を傷つけるとか、不適当な評価を与えてしまうとか、色々あるだろうけど、ここでは特に「物事の価値や秩序を揺らがせてしまう」という性質に注目したい。多分、今足りていないのは、こういう言葉だと思うからだ。
まるで昔のロックンローラーのような感じだけれど、そもそも、様々な形で行き詰った世の中を変えるには、行き詰った世の中そのものを維持しようとしている構造を激しく揺さぶって(rock)破壊しなければならない。日常にこびりつき、安定や安心と癒着して誰もが否定しがたくなっている様々な価値観は、この構造を基礎から支えてしまっている。こういう価値観がある限り、人々は世の中を変えることはできない。だから、たまに、世の中を不穏に揺さぶるような「わるいことば」が必要なのだ。
しっかしね。
とはいったものの、ここ20年くらいで、急に親や友達に感謝する歌詞の気持ち悪い歌が増えちゃったり、挙句に、不勉強なのになぜか保守を気取る歌手まで出てきて、揺さぶるどころか何かを塗り固めようとしているようにも思える。なんというか、そりゃまぁ、ヒトラーのやったような国威発揚や物語の力で国民国家にブーストをかけるというのは技術的にはアリなのだろうけども、世界中でそれが始まったのが近代であり、その末路が二つの世界大戦であったはずである。
戦争に突入する空気の中では、自由もクソもあったものではない。誰もが窮屈そうにしていたって、一緒になって進軍したり旗を振らなきゃ負けてしまう。負けたら皆殺しになると思い込めばなおさらだ。そして一部の間抜けは沖縄を焼かれ、広島と長崎を犠牲にしてなおも戦争を辞められなかった。東京五輪だって似たようなもので、開催しなければ国内のおさまりが付かないから中止にできない。開催の空気を破壊しきれないから中止にできない。そんな消極的な理由で地獄へ突き進んでいる。まぁいい。そういう価値観にヒビを入れてぶち壊す、rockな言葉が必要な時期になっているのではなかろうか。うっせぇわがそんな歌詞だかどうかは知ったこっちゃねぇけども、そこに、若者たちの「わるいことば」があるのなら、それはそれで意味のあることなのだと思うのだ。