徒然駄文8.「断片化された情報」の「引力」

世界三大エルフって言ったら、『ロードス島戦記』のディード・リット、『覇王大系リューナイト』のカッツェ、『おざなりダンジョン』のモカじゃないですか。多分聖書にも書いてあると思うんですけども。

時は90年代前半。
エルフというか、長耳っこが輝いて見えてね・・・。
そのすぐ後に『秘境探検記ファム&イーリー』のファムで褐色・獣っこというのが来て性癖がねじ曲がっていくわけじゃあないですか。ホビージャパンを熟読っていうか、今のように簡単にインターネットから様々な情報や過去の図像にアクセスできるような状態ではなかったので、図書館で古いホビージャパンを借りてきて必死に「まだ見たことのないイカすデザイン」や「そのデザインのキャラクターやロボットが活躍するドラマ」を探し続けた。それでファイブスター物語に出合うのだけれど、およそ最悪の出会い方で、最初の買った単行本が8巻。小学生にとっての1000円って国家予算じゃんか。その1000円がジャーゴンの塊みたいな8巻で消えちゃって、モータヘッドは出てくるけど主人公誰?ホーンドミラージュは?え?え?みたいな感じだった。ともあれ、あの頃から「断片化された情報」から「全容をサルベージする」ことに取りつかれた僕は、結局、マンガ家にもメカニックデザイナーにもならずに人文系の研究者となったのだった。

断片化された情報が持つ引力というものは凄まじい。
ファイブスター物語は今も、最初に公開された年表の一部をクローズアップしながら中途半端な情報を小出しにして連載を続けているが、読者はつねに、コマどころか吹き出しのセリフの単語レベルから年表のミッシングリンクをへの当てはめと解読作業をリアルタイムで進行させる。この作業の楽しさについては、大塚英志『物語消費論』にあるビックリマンチョコの考察に詳しい。

日本史の話をすれば、例えば、弘法大師空海は若かりし頃、大日経の断片から密教の存在に触れ、その全容を知るべく大学を出奔し、ついには中国(唐)へ渡って恵果阿闍梨から真言密教の神髄を継承して帰国した。若き空海にそこまでさせたのは、仏教へのあこがれ、それも、「密教の断片」から想像した「密教の全容」の素晴らしさへの強烈なあこがれ、引力である。

かけらに触れただけでもこんなに面白い・感動したのに、全体に直接触れたらどれだけトンデモないことになるのだろう。

そう思うからこそ、僕らは本場に行きたがるし、本物に触れたがる。そういうあこがれを、向学心を、仏教では般若心と呼ぶ。

僕にとってのロボットアニメは常にそんな感じだった。
大好きだったトランスフォーマーは『超神マスターフォース』からで、その前には初代、劇場版、2010、ザ・ヘッドマスターズ、リバースなどがあったが、それらはカタログからキャラクター商品の存在だけがうかがい知れるものの、そのキャラクターの内実や活躍までは分からない。まして、未就学児にそこまでの情報収集は無理であったし、中高生時代にはまんだらけやヤフオクでこれらのグッズやビデオを集める経済力が無かった。

ファイブスター物語に至っては、そもそも断片しか発表されない上に、当時はしょっちゅう休載しては、休載明けは必ず意味不明なエピソードから始めるクソっぷりであったので、もうビックリマンチョコの方がストーリーをたどりやすいんじゃないかと思うようなレベルであった。

だから、微かな断片、かけらだけでも、憧れたものに触れる手がかりは何でも欲しかったし、手にしたかけらはどんなに小さくても想像が無限に広がっていった。広がった想像に、今度は裏付け作業、検証が必要になる。区別や同定の方法を模索することも、この手の考察の楽しみである。

そういう引力、吸収力は、ある種の飢餓感が満たされて消えていくと同時に薄れ、弱くなっていく。歳をとるとはこういうことなのだろうかと思う今日この頃だが、それでも、未だに調査対象への興味や執着は野良犬並みなのだと自負している。そうでなければ、この手の仕事は向いていない。

飢餓感には活かし方があり、飢餓感の方向性と活かし方をどのような表現手段によって出力していくのかが、大人になっていく過程でその人間が何者になり得るかに影響することがあるらしい。僕の場合は、ロボットアニメやマンガのキャラクター(主に製法なのだが)が飢餓感の根源になったし、飢餓感を満たすための調査や、下手糞のままだったが物を描いたり書いたりしていくことで飢えを満たしてきた経験が今につながっている。

これは貧しさというよりも、情報へのアクセサビリティの問題であり、ロボットアニメに対する飢餓感が急速に薄れたのも、「ある程度堀つくしてしまった」と感じた時だった。揚言も甚だしいが三島由紀夫の『豊饒の海』のラストを読んだときに感じた妙な共感は、「ああ、古いホビージャパンや同人誌や模型雑誌、パソコンゲームあたりを探しても、あらかたロボットは堀つくしてしまった。新作も微妙なのばっかだしな」と思っていた00年代初期の自分に、似たようなものを見たことによる。

求める情報そのものにアクセスできてしまった瞬間、それを堪能してしまった時点で、飢餓感は満たされ、飢餓感に突き動かされて走る楽しい時間は終わってしまう。思えば、おたくとしての僕はあのあたりで終わっていたのだが、その後になって色々と具体的な仕事に携わるようになっていったのが今にして思えば皮肉な感じだ。

インターネットを通じて様々な物事へのアクセサビリティが提供されている今、「素敵なものの断片」に出会う機会は増えているのだろうか。

僕はもうおっさんになってしまったけれど、今の子達は、例えば、買ってもらったホビージャパン1冊を読み倒し、描き写したりして性癖がゆがむくらいにその先にある全体像、原本との接触を希求することがあるのだろうか?そして、その機会は増えているのだろうか?

大学で教えていると、自分と同じ「取り憑かれた」学生に出会う。
この手の学生は、こちらから指示しなくても、たとえコロナ下であっても自分の心の中に巣くう引力に従って情報を集めて、組み立ててくる。勉強とか修行とか、そういのは関係なく、「そうせずにはいられない」のである。多分、良い断片に出会えたのだろう。そして、毎日毎日、切なくてたまらないのだろうなぁと思う。

自分も、カッコいいロボットが見たくて仕方が無くて、夢の中でまでおもちゃ売り場でまだ見たことのないカッコいいロボットのおもちゃを買う夢を見たし、毎日のように秋葉原をうろうろしていたこともある。別に暇だったわけでもロボット好きなわけでもなく、カッコいいロボットに感動してしまったその日から、心の中に「まだ見ぬカッコいいロボット」という空洞が空いてしまい、その空洞が今もブラックホールのように強烈な引力、重力を生じ続けているのである。

大変だ。今夜はエルフの話をするはずだった。エルフの村はレッドミラージュのインフェルノナパームで焼かれてしまいましたとさ。適当にもほどがある。

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