世界もきっとわたしのつづき─日向坂46展「WE R!」について─
これは映画『フォレストガンプ』の劇中で描かれるやり取りだ。
それは病に冒され余命幾許もないジェニーと、戦場から砂漠まで様々な場所を渡り歩き人間の多様な感情を目の当たりにしながらも純粋な心を失うことなく帰ってきたガンプとの間で交わされた、小さくて大切な少しの会話だった。
戦場から見上げた星空、エビ漁の傍らで水面を滑る光、広大な砂漠から太陽が立ち上がっていく光景。美しさをとらえたとき、いつだってガンプの心にはジェニーがいた。だからガンプの言葉は当たり前のこと聞き返すように、まるで彼女の言うことが意外であるかのように、素朴に溢れる。You were. 君もいたよ。
誰かを想うことは、誰かと共にあるということなのだ。
現在六本木ミュージアムで開催されている日向坂46初の展覧会「WE R!」を、先日ようやく観覧することができた。その感想と、この展覧会が発表された当初から感じていたことを、拙いながら形にして残しておきたい。
この展覧会の開催が発表された時、まず最初に感じた印象と言えば、キービジュアルの秀逸さだった。
カラフルで勘の冴えたスタイリングは、一歩間違えれば派手さに巻かれ調和の欠如を強調しかねない所を、優れた色彩のバランスによって個々の華やかさを演出し「個の集団」という調和を成し遂げている。
そして、そのカラフルで冴えたスタイリングに身を包んだメンバーがとっているのは、個性的で、一見コミカルさシュールさを湛えながら、しかしその全員が真剣さを表情と身体で表現することで成り立つ絶妙なポージングだった。
ポージングを担当したのがグループの楽曲で表題/カップリングを問わず多くの振り付けを担当しているCRE8BOYであることを後々知った時は、日向坂46というグループの持つ性質を見事に捉えた表現の見事さが、彼女たちのクリエイティブと長年向き合ってきた方々によるディレクションによるものなのだと得心がいった。
カラフルで、個性的で、尚且つ真剣。それは日向坂46というグループが内在している要素を色と表現によって見事に描き起こしていた。彼女たちはいつだって愉快で、楽しく、そして真剣なのだ。コミカルなことに真剣なのはカッコよくて、可愛いくて、やっぱり面白い。
スタイリングとポージング、どちらも微妙なバランス感覚を間違えて仕舞えばとたんにくどくなったりダサくなったり、チープになったりしてもおかしくないチャレンジングなもので、ディレクションの手綱裁きとそれぞれの連帯、そして高い美意識と愛がなければ成せなかった見事なデザインとなっている。
この時点で私の中の期待値は「かならず観覧しよう」と迷いなく決断するに値するものになっていたのはお察しの通り。
当日は麻布十番駅7番出口から鳥居坂を経由し、六本木ミュージアムまで足を運んだ。
この展覧会が始まってから日数も経っていて一部展示物の入れ替えも行われており、私自身この入れ替えで展示されるある衣装を目当てにしていたこともあってこのタイミングの来館になった。よってそれ以前に展示されていた物については紹介も言及もできないため、ご容赦願いたい(グッズで図録が売られているので、そちらをお買い求めいただければ紙面ではあるがすべての展示がつぶさに確認できるのでおすすめ)。
展示内容としては至ってシンプルで、けやき坂46として発足し日向坂46に改名、そして現在に至るまでの年表を道標として経路が作られていて、辿っている途中に数々の思い出の品やMVなどに実際に使われた小道具、数多の衣装、そしてMVやライブ等の制作のために用意された絵コンテ等の資料が置かれていて、展示物を鑑賞し館内を進んでいくということがすなわちグループの歴史を辿るという体験をもたらしてくれる。
これらは往年のファンにとっては思い出を辿る体験であり、歴の浅いファンにとっては過去を辿ることでグループへの理解を深める追体験でもある。
つまりこの展覧会で展示されている物は、おおまかに言って仕舞えば「過去」ということになる。彼女たちの「現在」と地続きな「過去」が、展覧会という日常の中に切り抜かれた非日常的な空間に丁寧に並べられているのだ。私たちは彼女たちの「過去」を歩みながら、「現在」に向かっていく。
ただし、この展覧会にはもうひとつ大きな特徴がある。それがこのほぼ等身大のメンバーパネルたちだ。
キービジュアルと同じくCRE8BOYが手がけたポージングをきめ、WE R!のフラッグを持ったメンバーのパネルが館内のそこかしこに存在し、この展覧会の非日常性を際出せている。
これらはビジュアル的な楽しさと展示の華やかさを担保し、キービジュアルに抱いた期待感を直接的な形で昇華してみせている。
ポージングとは表現においてどのような役割を持つのかについて、私は身体的に非日常を演出する手段のひとつだと捉えている。日常を生きるという行為の中には存在しない恣意的な身体の操作──これには例えばダンスや歌といった表現方法も含まれるだろうが、ポージングというのはその中でも静止するという特徴上、より「空間から切り取られる」効果があり、翻って「空間を切り取る」効果もあるように思う。
私たちと同じ空間にいながらにしてポージングをきめる彼女たちは異質で、違和感があり、目の当たりすることでそこに「意図」を汲み取ったり「存在」を感じたりする。
そこには私たちと同じ人間でありながら、日常から自分達を切り離しアイドルという偶像を全うする彼女たちのあり方そのものにも重なるものがあるといってしまっても決して大袈裟ではないだろう。
そして、表現を展覧会という催しそのものに広げてみても、やはりそれはひとつの空間をデザインし空間を非日常に演出していると言える。
彼女たちの「過去」から「現在」への道のりを、彼女たちのもつ要素を確実に捉えたポージングの数々とともに歩むことで、メンバーとファンの間に改めて「同じ道を共に辿った」関係性を再現することができるのだ。
クリエイティブへの確かな不満や紅白落選といった不安を伴う結果に、メンバーやファンの感情が様々な方向に揺れ動き、日向坂46はある種の再スタートを切ろうとしている。
選抜制度の導入というグループのアイデンティティを揺り動かす施策は必然を伴いながら大きな変化を伴い、グループとファンの関係もまた新しいフェーズに入ろうとしている。
けやき坂46として発足以来グループには様々な節目が訪れてきたが、今回の決断は改名に並ぶ大きな変化だと言っても過言ではなく、この展覧会を「グループのここまでの歩みをひとつの物語の区切りとするもの」ととることもまた難しい話ではない。
彼女たちの歴史の追体験、共にいると言うことの再現。過去、時間という不変で絶対的な隔たりを切り取り、同じ時空に閉じ込めて、その場所でだけは共に存在することができる。
この展覧会を通して、往年のファンも歴史の浅いファンも同じ時間を飲み干し、踏み締め、等しく彼女たち──コミカルささえ真剣にきめる彼女たちと同じ空間におかれることになる。
前述の通り彼女たちのポージングを「日常の中で非日常たるアイドルでいること/それを日常に生きる私たちが受け入れること」の表現だと受け止めることができるのなら、ポージングをきめる彼女たちと同じ空間に共にいるというのは、それはそのままこの日常の中で彼女たちを、アイドルを応援するということと重なる。
私たちが生きる日常で、彼女たちとの物理的な距離は様々に変化するが、基本的にはやはり遠い存在であることに変わりはない。彼女たちは私たちと同じ日常を生きて、その中で表現をし、私たちはそれを求め受け止める。
共にあるというのは物理的な距離だけで解決するものではなく、もっと複雑で変化を伴う。
物理的な距離が近くても共有されない時間もあれば、生涯言葉を交わすことがなくても共にできる時間もある。
展覧会の年表の最後は『11th Single君はハニーデュー発売 センターは正源司陽子』というところで終わる。この展覧会でグループの「過去」を共に歩み「現在」に追いついた我々は、六本木ミュージアムから外へと出ることでグループの「未来」へと向かうことになる。
「未来」とは牧歌的な夢だ。「現在」を肯定できていなければそれは途端に不確かなものになる。「現在」が無条件に続くだろうという甘い夢なのだ。そして「現在」はいつだって「過去」を生み出し続ける。
展覧会が終われば、時間もまた不変で絶対的なものへと戻り、望むと望まないとに関わらず「未来」に向かって流れていく。
だが、この時間の流れの中には確実に彼女たちがいて、そしてもちろん私たちもる。
会いに行けるアイドルという標榜を掲げ発足したAKB48の流れを汲む日向坂46もまた、その内容には変化や多様化を含みつつ、握手会を経てコロナ禍におけるオンラインでのミート&グリート、そして時勢を鑑みながらリアルイベント化まで漕ぎ着け、彼女たちと物理的距離を共有する時間というものが再び盛り上がりを見せている。
また、ライブやイベントもひとつの空間を彼女たちと共有するもので、彼女たちとの物理的距離というものはその都度尺度を変えて提供され、私たちの糧となってくれている。
しかしこの展覧会で、彼女たち本人ではなく、彼女たちのパネルに囲まれながら取り戻せないはずの時間を共有したことで、彼女たちと触れ合っていない日常さえ彼女たちと地続きにあると認識することができた。
前回行われた櫻坂46の展覧会「新せ界」が館内撮影を制限しグループの世界観にファンを取り込み共犯者とする方向性をとったのと対照的に「WE R!」では写真撮影とシェアが推奨されており、展覧会という空間を日常の中で共有し繋げることでこの世界観を日常と接続させた。
これらはグループカラーの差異を踏まえた、それぞれに冴えたやり方だったと思う。
世界は残酷なほどに大きなひとつであり続ける。一生かかっても全てを把握することは不可能だ。だが、間違いなく私のつづきには彼女たちがいて、そして彼女たちのつづきには私たちがいる。
私たちがみんなで彼女たちを考え、想うかぎり。
You were.
いつだって、そこに君もいる。
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