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トーキョーで落として、東京で拾って


─大事なことが書かれているよ!事前に読んでね!─

ドブ助「わぁい、ゼンブ・オブ・トーキョーの感想noteだ!つどえつどえ〜!」

注意博士「おっとドブ助くん、ちょっとまつんじゃ」

ドブ助「なんだよ博士、せっかく日向坂46四期生が全員出演する映画『ゼンブ・オブ・トーキョー』の感想noteを見に行く所なのに。小学生に話しかけるなよ。近所で有名なタイプの高齢者だぞお前」

注意博士「このnoteにはネタバレが存在するから、映画未鑑賞のドブ太くんは見ない方がいいんじゃよ」

ドブ助「あぁ、なんだ、そんなコトか……。ぼくはね博士、映画を事前に解説だけナナメ読みしてからSNSでさも自分の知識かのように披露するのが趣味なんだよ」

注意博士「まずお前の人生の終わり方のネタバレをしてやってもいいんじゃぞ」

ドブ助「いっけねぇ!また博士を怒らせちゃった!みんなは怒った博士に恐竜戦車みたいな改造をされないように、ネタバレnoteには注意してね!」

─読んでくれてありがとう!例えびしょ濡れでも唐揚げは唐揚げって名乗っていいんだって。知ってた?どうでもいい?ばいば〜い!─

 


※ここから本文が始まります

 物語は正源司陽子演じる池園優里香が教室の机に座り、独白する所から始まる。その耳にはヘッドフォンがかけられ、これから始まる物語が、彼女の心象の中に秘められたものだということを予見させながら。

 映画『ゼンブ・オブ・トーキョー』は、長野の高校に通う学生が、修学旅行で訪れた東京でそれぞれが思い思いの行動にでて、それらがバラバラに、そしてやがて重なりあっていく群像劇だ。

 この映画の主役である池園は常にフルスロットルで、前向きで、決めたことにまっすぐな性格として描かれている。そのまっすぐさは屋上で班員に「東京の全部を巡る」と提案する回想シーンでも、向かうバスの中で自作の行程表を配るシーンでも現れ、そして彼女の熱量に対する反応は班員それぞれに微妙な温度差がある。

 それもそのはず、班員には班員の思惑があり、彼女の過密スケジュールに従うばかりでは各自の目的を果たすことは叶わないからだ。そしてそれは、池園の熱意を柔らかく受け入れているように見える桐井(演/渡辺莉奈)もまた同じ。

 東京という街の「東京らしさ」を踏破することを夢見る池園にくらべて、班員の殆どにとって東京とはもっと明確で具体的な目的が存在する場所なのだ。「修学旅行を、東京を限界まで楽しむ」ことを目的としている池園と「やりたいことや関心があるものが東京にある」という班員たちとの間には、熱意の所在にちょっとしたズレがある。

 彼女たちが東京に散らばるきっかけは、小さな「失敗」だった。
班長池園が気合を入れて綿密に組んだ修学旅行のスケジュール、自由時間を余すことなく使って彼女にとっての『東京らしい場所』であるランドマークや飲食店などを巡ろうとするも、綿密であるがゆえに不測の事態に足踏みするや否や、班員たちはそれぞれが抱えていた思惑を胸に東京の街へと散っていく。

 やむを得ない一時的な解散だったはずが、みんなで決めた集合場所にたどり着いても池園はひとりぼっち。連絡すると、みんなその場所についていると返ってくるのに、合流できる気配はない。
 ひとまずパラレルワールドということにして、有耶無耶に、煙にまかれるように、東京を舞台とした個人行動が始まる。

 この物語は「失敗」をきっかけに転がりだす。
彼女たちはそれぞれの思惑をもって東京を駆け巡る。それはもちろん、池園も含めて。

「東京」という街は、今でも誰かにとっては夢の立ち上る場所で、都市生活というものはコカ・コーラのCMのように幻想の世界であり続けているのかもしれない。しかし今を生きる若い彼女たちにとって東京とはもっとずっと「現実」なのだ。
 そして「現実」は夢のように甘くはない。もっと簡素で、唐突で、味気ないこともままあるのが「現実」。
 
 東京に散り散りになった池園班をはじめとした「別行動」に走るクラスメイトたちは、それぞれの目標に取り組みながらも、それぞれの「失敗」に直面していく。
 
 羽川(演/藤嶌果歩)と辻坂(演/竹内希来里)は意中の守谷くんを尾行し、牽制しあいながら彼の心のうちを、蚊帳の外から知ることになる。

 説田(演/石塚瑶季)、角村(演/清水理央)、梁取(演/宮地すみれ)、門林(演/山下葉留花)の通称「ぽぽず」はお目当ての限定グッズを手に入れるため計画を走らせるも、様々な要因に拒まれ、ことは思い通りに運ばない。

 東京生まれで長野に転校してきた桝谷(演/小西夏菜実)は、自分に東京の幻想を抱く花里(演/平尾帆夏)に付き纏われる中で、転校前の旧知である満武(演/平岡海月)と合流し、彼女の東京時代のある素性を花里に悟られないよう協力を仰ぐ。

 そして桐井は、胸に秘めた夢のため、単身である場所を目指す。

 それぞれがそれぞれの思惑を持っている。そしてそれぞれがそれぞれのトラブルに見舞われ「失敗」し「成功」を落としかける。

 彼女たちは全員が少しずつ身勝手だ。
 そもそも全員修学旅行の規律を守るつもりがなく、池園のスケジュールに綻びがみえると途端にコソコソと離散し、撒いてしまう。

 欲しいものがある。自分を良く見せるために隠し事をしている。自分の理想像で他人を測る。お互いを牽制し出し抜こうとする。

 そして十分なすり合わせをせずにひとり空回りする池園もまた、彼女なりの身勝手さを持っている。他人の気持ちをおしはかる前に、自分の感情で走り出してしまう。
 池園班のメンバーが普段どういった関係性だったのかは明確には描かれない。屋上のシーンも、もしかしたらありがちな班決めで集まっただけの、仲が悪くはないがグループは微妙に違うような面々なのかもしれない。

 班員は池園の気持ちを置き去りにしたし、池園は自分の気持ちだけを走らせてしまっていた。この物語にでてくる登場人物は、大人も含めて、みんなどこかに身勝手さを抱えている。

 でもそれって、身に覚えがないことなのだろうか。
自分の気持ちだけが先走って空回り、周りから疎まれたことはないだろうか。
あるいはそういったものを疎ましく感じてしまったことは。
自分の都合だけを考え、それを正当化し、人を傷つけたことは。
人によく見られようと思ってついた些細な嘘が大きくなって引くに引けなくなったことは。
同じ相手に好意を持っている友人を、つい出し抜こうとしてしまったことってないだろうか。

それって他人事ですか。
生きることって「成功」よりも「失敗」の積み重ねの方が多いなって思ったこと、ないですか。

 アイドルが演じる女子高生たちの修学旅行、一般人かつ、この映画を見にいく大部分を占めるであろうアイドルファンたちにとってはかけ離れた世界なのかもしれない。しかし彼女たちが学校という小さな社会で成り立たせている関係性や、身勝手さというものは、普遍的に繰り返される日々の「行動」そのものと、決して無関係ではないはずだ。

 そしてこの物語は、そんな「行動」こそが、取りこぼしたなにかを拾い集めるきっかけも描いている。

 メンバーと離散した後も、道中で合流もできるだろうと考え、池園もまた、たった1人で自分のスケジュールをこなし続ける。そんな池園の「スケジュール通りの行程」がぽぽずの窮地を救い、バラバラだった彼女たちとまた結びつくきっかけになっていく。

 誰かが取りこぼした「失敗」が、また他の誰かを呼び寄せ、つながり、「桐谷の夢」への後押しという「成功」を拾い上げようとする。

 桐井の想いを知った池園は、自分の想い描いていた「全部」には皆がいたこと、彼女にとっての「東京」はただ現実としてのそれではなく、「トーキョー」という楽しい思い出ができるはずの夢の機会であり、全部とは場所ではなくて、みんなと共有してこその「ゼンブ」なのだと気付く。

 「東京」は幻想にもなれば、現実にもなる。
インバウンド需要に溢れた東京のインスタントな観光の足元には、もっと生々しくも簡素な生活と行動があり、多くのままならなさが転がっている。

 映画を手がけた熊切監督は、各所のインタビューで、この映画の撮影について「彼女たちがみる東京ではなく、東京がみている彼女たちという視点」と表現している。

 彼女たちを追うカメラは同じ目線になるようになっていて、反面引きのカメラで彼女たちを定点として捉えるショットの切り替わりが印象的で、つまりその視点こそ「東京が彼女たちをみている」ということなのだろう。

 カメラの画角の外から池園の声だけが聞こえて、じっと見ているとやがて彼女が画面の中にやってくる。生活と活動のひとつとして東京は彼女たちを眺める。

 劇中、東京の日が暮れることはない。常に昼間なのだ。これには撮影スケジュール上の都合もあるだろうし、そもそも修学旅行の自由時間なのだから日が傾ききった時間まで許されるものなのかというすり合わせもあるだろう。

 この映画で映し出される「昼間の東京」はあっけないまでに現実であり、エモーショナルさのかけらもない。それはまさしく都市の姿で、夢の世界ではなく、人が生活し行動するための、ただそこにあり続けるもの。
 各所で顔をだし、のちのちある役割を背負うことになるタクシー運転手の女性が、上司と電話しながら路上喫煙しているひらけているのに人目につかないなんでもない場所。池園班が巡るランドマークがめまぐるしくダイジェストされていくのと対照的に、"場所"としか言いようがない、ダメなやつがタバコふかしてるただの"場所"。そのどちらもが間違いなく「東京」なのだ。

 紆余曲折あって合流したみんなが海と砂浜ではしゃぐシーンでさえ、それが演じた彼女たちにとって「本当の修学旅行のような」満場一致のエモい場面だったにも関わらず、この映画で捉えられるそれは過剰なエモーショナルを注ぎ込まない。桐谷と池園がその輪に合流してく様子を背中から捉えたその映像は、ただ見ず知らずの学生たちがはしゃいでいる様子を偶然見かけような、そんな場面にすら思える。
 東京の視点とは暮らしの視点であり、ただ日々を生きている私たちの視点でもる。
それぞれが無関係でも、結局のところ、同じ世界に生きている私たちの視点。

 私たちは映画を通じて、彼女たちの青春の一コマを眺める。しかしその青春とは、結局のところ彼女たちの、その時間にだけあるもので、きっと彼女たち自身もその時点では気づけないものなのだ。

 振り返った時にかつてあったかもしれない記憶の輪郭を理想で立体させようとするのが青春なのか、はたまたありもしない理想を記憶として練り上げるものなのか。後者のことを昨今は「存在しない記憶」とかって言うんでしたっけ。

 彼女たちがまだ成熟しているとは言えないような若いうちからアイドルとして青春を体現し、それを視点として眺める私たちの身勝手さもまた確かにあるのだと思う。

 大きな「失敗」が、のちに「成功」として拾い上げられることを示唆し、この映画は幕を閉じる。
あの東京で過ごした時間は、小さな過去となって、池園にとっての理想の輪郭となったのだろうか。

 自分の身勝手さに気づけないでいるであろう今この時間も、いつか振り返れば青春といえるものになっているのだろうか。いつかまたこの映画を見返す時、改めて考えてみよう。

 そうやってこの映画を振り返ったとき、私にとっての「ゼンブ」は彼女たちがいてこそなのだと、また気付きたいと思うから。
 



 最後にもうひとつ。
 今作の主題歌である『急行券とリズム』(Conton Candy)のMVは、同じく正源司陽子を主人公としながら、対照的に日の落ちたエモーショナルな東京の姿を映し出している。
 「夕暮れ」という景色は、世界が着実に活動をやめていく姿をみながら自分の意識だけが漂い、昼間行われた生活の行間を省略してただ感情だけが浮かび上がるかのように錯覚させる。
 ゼンブ・オブ・トーキョーが昼間の東京が生活を眺める客観性を持っているとするのなら、このMVは登場人物である正源司陽子の心象と景色とが繋がった主観的な感情を描いているように思う。
 まだ見ていない方は是非、500回くらい見てください。


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