事物を説明する際にどのような方法で記述していけば、観測者に内容を伝えることができるのか
はじめに
ある本を読むには、ただ本を読むより、ペンや鉛筆で字を書いたり、キーボードを叩いて文章を書いたりする作業を中心にする方が捗るということがある。これは、意指(こころばせ。考えの方向)を筆記することで、意会(一字一句の解釈をこえて文章全体の意図がはっきりつかめること)に至りうるということを示している。
これは自分の考えの全体図を自覚するという段階の話であり、よって次に、その考えを他者にどのようにして伝えるのか、という問いが生まれる。
この問いに対するにあたっては、『スポーツを考える』を読む際に、
「事物を説明する際にどのような方法で記述していけば、観測者に内容を伝えることができるのか」
という根本的なことを明らかにするヒントを、この本の書き方から探ってみた。
以下は、それによって得た、事物について説明するとはどういうことかという考えを、点と線と面という図形の関係を用いてまとめたものである。
点と線と面との関係について
(1)事物(fact)の面としての理解について考えるとき(printing)
精神的にギリギリのラインでできることであるが、アイディアを出しあっていると、相手側がとてもひねくれたものの言い方とか批判的な言い方をしてくるようになるので(おおかた自分の不遜な態度が悪い)、
その人特有の言い回しは取り除いてファクトだけを別に書き出してそれを元に考えるcapturingを行う。ファクト分けを行うことで、相手の言っていることを個人的な批判として受け止めないように意識することができる。
このファクトというのは、うまく言い換えようとして使った僕の造語である。相手が何を言わんとしているのか、どういった真理を顕そうとしているのか、そしてその考えの筋道が分かるような部分。事物。これを指して「fact」と呼称した。
そのようにしてファクトを考え、事物について一定の理解を得たとき、これは事物の面としての理解であるといえる。
そして面はパネルであり、組み合わせてスペースを形成するpanelingを行うことが可能だ。
(2)その事物について、その実用における局所的な使用用途(点)を考えるとき(pointing)
ここでは、発散するハテナ
(“〉?〈" または "←?→" と表せるもの)
の話をする。
事物を観測して発した言葉(説明や紹介など)のあとに(?)を付けると、その言葉に対した、2つのイメージの付随がみられる。1つ目は、「私は自分がわけのわからないことを言ってることを自覚していますから責めないでください、ただのジョークです」というように保身をする(便宜的に保身という言い方をする)というイメージ。2つ目は、この箇所に疑問点を残しているという付箋的なイメージ。
さて、こうした?の添付によって、それらのイメージが観測者の前に訪れるとして、ある事物を理解するためには、?をチリになって消えゆくままにするのではなく、収束発散させなければならないだろう。
?を、収束するもの、発散するものとして表記することができれば、その意図に沿うのではないか。
ハテナの収束は、疑問を持つ(?)のとは逆に、信じて役立てること(!)だといえる。つまり、特定の状況に絞って実用することであり、実際の状況に応じて技術を採用することである。
このようにして、実用における局所的な使用用途(点)を考えてみる。
使用用途とはつまり可能態のことであり、このことから、事物の構成とは可能態の集合であるということが言える。これは、ライプニッツのモナドロジー的な考え方である。
(3)言葉によって事物を説明(線)するとき(rooting)
自分の持っている面としての理解に対して、
説明や紹介、または感想などといった、言葉による形式づけを試みたとき、
それらは線となって観測者の眼前に表出する。
線として観測者の前に表出させると、その線上における点をとらえるというようにして、問題点を指摘することが可能になる。
話者(観測者)は、その発された言葉に、何かしらのインスピレーションを受けている。また、発された言葉の組み合わせを、新しい仮説としてとらえることができる。
〈~とらえることができる〉ということについては、「もしも」「あり得ること」から発想する心理機能を使うことで、その組み合わせを踏み台にして、全く別の方向からかもしれないが、より自由な視点を得ることもできるだろう。
例えば、批判的に考えることは、矛盾を見付けだそうとすることを可能にするが、
そのとき逆説的な仮説を提示されたならば、次のいずれかにつながる矛盾を見つけようとするだろう。
・新しい仮説の取捨選択
・自分の論理構造に統合するための新しい仮説の修正
・新しい仮説に対応するために、自分の論理構造を修正すること
おわりに
(3)で述べたrootingは、一枚絵に起こすことであると言い替えられる📷。一枚絵として見るということについて、以下の書籍にかかれている。
・ミクロ(子ども)とマクロ(芸術)を自由に行き来する子どものような目
・〈未知の航海のごとく外へとむかう知の広がり〉『百科全書』に対しての、〈内へとむかうミクロコスモス〉『世界図絵』。小さな絵のなかに世界が縮小されている。
そして、一枚絵に起こすということは、〈物語る〉storytellingということであると言える。また、mappingであるとも言い替えられる。
・何かが書かれた紙片の上に城を築く
一個の土台の上にすべての考えが乗っている会話を本来的な会話とする。
この土台とは、「何かが書かれた紙片」である。
会話の実際的な手段として、自分を土台にした場合、その上には自分以外のものが乗せられない。自分を土台にして進めるそうした会話を雑談と呼ぶことにする。
本来的な会話においては、一回一回の会話は過程ではなく、一つの土台に帰属する。つまりあらゆる考えがそこにprintingされ保存される。
続きはいずれ書きます。