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孤独なレフェリー

ニコラ・リッツォーリの素顔 ; レフェリー×人間 ~L'ultimo Uomo翻訳記事~

Text by Tommaso Gianni, Translated by @ansupporter
February 7, 2017


「私はまずレフェリーになり、そして大人の人間になったんだ。」

 ニコラ・リッツォーリはなぜ他の人々が審判の道に進むのかはわからない。サッカー選手になりたかった彼は、審判との関係はすこぶる悪かったからだ。地元ボローニャのドキュメンタリーにバールの主人役でカメオ出演してこんなことを言っている。
「レフェリーをする醍醐味なんて全く理解できないよ。」
 一方で、自伝のタイトルはこうだ。
「レフェリーの醍醐味」

 そうは言っても、彼は審判としてデビューすると約15年の間にカテゴリーの頂点、セリエAの審判にまで登り詰めたのである。ワールドカップ決勝、欧州チャンピオンズリーグ決勝の笛を吹き、2014年、2015年と優秀審判に選ばれた。過去に規定の年齢を超えて審判をすることを要求したこともある彼は、45歳の時、2018年のワールドカップは辞退することを発表した。イタリア審判協会(AIA)に宛てた手紙にこうつづっている。「全てのことには始まりがあります。そして当然のことながら終わりがあるものです。」

 

 彼は自身の性格を生まれながらの楽観主義者と評す。確実なのは、彼は野心家だということだ。「僕は常に挑戦のバーを引き上げ続けるそんな人間なんだよ。」いささかの誇大妄想はワールドカップ決勝で審判の役割を語った言葉にも表れている。「主審が2国の運命を決定づけるんだ。」 

 

2014年7月10日、リオデジャネイロ

 リッツォーリは2人の副審と共に座っていた。そこには他の2人の主審候補、ポルトガル人のプロエンサとウズベキスタン人のイルマトフもいた。ブラジルでのワールドカップ決勝の笛を吹くのは誰なのか。彼は知らせを待ちながら、我こそがとの思いで2人を見つめていた。

 FIFAの担当者が呼んだのは、リッツォーリの名前だった。一瞬リッツォーリがわけがわからずにいると、副審のステファーニが彼の膝にけがするんじゃないかと思うほど強くこぶしをぶつけてきた。回想しながら彼は語る。「その痛みから、自分たちが審判に選ばれたのだとやっとわかったよ。」

「試合の担当を任される瞬間が、レフェリーの勝利なんだ」と自身の理論を語っていた彼にとって、それは大勝利だった。彼は決勝担当を知らされた場面を回想するとき、FIFAの担当者がリッソーリと呼んだと強調しようとする。まるでボローニャ方言のように。
 

 1971年、モデナ県の小さな町ミランドラで生まれた彼はボローニャで育った。彼が住んでいるボローニャの自宅は細部までこだわって作られたもので、彼はそれを「僕の誇り」と言っている。ブラジルからの帰国後、リッツォーリは、数週間ぶりにやっと我が家に帰ることができた。彼はボローニャで芸術高校に通った後にフィレンツェの大学に進学した。そしてそこで、審判業のためにあきらめざるを得なくなるまでは彼は建築として働いていた。建築士、それは幼いころから思い描いていたもう一つの職業だった。ちなみにセリエA、Bレベルの審判に昇進した2001年にボローニャの聖オルソラ病院の小児腫瘍学病棟が完工したことは彼の誇りだ。


彼には大切な習慣がふたつあり、それはどちらも子供時代のことと関係している。

 一つ目はヴィクスの芳香性の軟膏の匂いをかぐことだ。ヴィクスの軟膏は、彼が幼かったころ病気になると彼の両親が胸に塗ってくれたもの。その両親は今では心臓に悪いからと見に来ないが、リッツォーリ本人は両親が審判姿を見に来なくなってほっとしている。両親のような近しい人たちに審判姿を見られるのはもともと好きでなかったのだ。「(見られるのは)ちょっぴり恥ずかしい」のだと言う。

 もう一つは試合前夜のホテル、「祖母が教えてくれたように」裁縫道具を使ってFIFA公式のワッペンを審判のシャツに縫い付けること。ワールドカップ決勝やチャンピオンズリーグ決勝の前にだけ行う儀式だ。

 

 ボローニャにはサッカークラブがあり、リッツォーリはそのチームの試合だけ受け持つことができない規定になっている。彼はボローニャにあるイタリア審判協会の管轄で審判登録しているからだ。ボローニャには彼が応援するバスケットボールクラブ、「ヴィルトゥス」があるのだが、コッリーナ、マッツォレーニ、ロメオといった「不屈の精神」(fortitudini)をもつ審判たちは、フォルティトゥード(Fortitudo;※訳注:ボローニャのもう一つのバスケットボールクラブ)のサポーターなので、リッツォーリは彼らと、サポーターとしてダービー戦で戦うことになった。

 ピエールルイジ・コッリーナと言えば彼の同郷の師であり良き手本だ。2014年秋、ワールドカップ決勝の確認の合図の後、リッツォーリはこう言っている。「自分と彼(コッリーナ氏)を比べるなんて無意味なこと。とても私にはできないよ。」

彼の同郷の師であり良き手本でもあるコッリーナ氏と。 2014年12月世界サッカー・アワードinドバイ表彰式での一幕。


 ボローニャではリッツォーリ自身もサッカーをしていた過去がある。当然彼はサッカーにかけては情熱的だが、試合を担当するようになった今日ではさらに、―――ただ観るのではなく―――コンマ数秒に満たない選手たちのプレーや振る舞いを評価することを意識していなければならない。ボローニャの一ユースチームでは右ウイングだったが16歳の時けがを負い、友人に倣って自身の経験をレフェリングを学ぶことで役立てようとした。彼は知識と事実をもってマッチオフィシャルにも対抗できるようになりたかった。

 実は、彼はワールドカップの決勝戦を任されるなんて期待していたわけではなかった。担当することとなればおそらくゴネッラ(78年アルゼンチン大会)、コッリーナ(02年日韓大会)に次ぐ史上3人目のイタリア人審判だが、決勝戦の審判は1990年から各大陸で持ち回りされており前回大会の2010年にはヨーロッパの審判(※イングランドのハワード・ウェブ)が決勝を担当していたからだ。望んでせいぜい準決勝だと。

 彼は指名されると、最も身近な家族や友人に知らせた後、数日前に賞賛をいただいていたマッテオ・レンツィ首相に連絡を入れた。レンツィ氏は、1994年にはアマチュアの試合で笛を吹いた経験をもっていた。そしてこの電話の数か月後、リッツォーリはレンツィ氏と、ともに時間を過ごした若く能力のあるコーチとの比較を始めた。

 

 試合前日のホテル、彼が唱える2つのおまじないがある。一つはテニスプレーヤー、A・アガシの言葉だ。「コントロールできるものをコントロールしなさい。」マントラとして繰り返す。またもう一つは彼の人生を変えた図書、孫武の兵法書『孫子』の中にある。「敵の失策を期待してはいけない。自らの準備のみ信じるのだ。」
 では審判の敵とは?リッツォーリに言わせれば、それは不慮の事態のことだ。

 

 人が審判をするのには様々な理由があるが、その一つは度胸があるからだといえる。

 

 決勝の舞台マラカナンで鮮明に覚えているのはその静寂だ。ボールを抱え、両チームを携えて優勝カップを前にピッチに入場する瞬間、静寂に包まれたピッチにそれ以上のものはなかった。優勝カップに触れてみたくもあったが、落とすといけないからやめておいた。そしてドイツ対アルゼンチン、試合開始のホイッスルを鳴らした。

 試合中、頭を強打したクラマーが、起き上がるとリッツォーリに近づいて言ってこう尋ねてきた。「レフェリー、今って決勝?」リッツォーリは冗談だと思ったが、クラマーに質問を繰り返すようにいうと「YES」というので、リッツォーリはドイツ代表のキャプテンに知らせに行き、クラマーは交代してベンチに下がることになった。

 

ミスを犯すのも人間

 リッツォーリ曰く、試合は「たくさんの変数の入っている方程式」だ。彼にしてみればレフェリーは自分が絶対に誤審をしないと信じることなどできない。自分がミスなどしないと思っていると、実際にミスをした時に、石の下敷きになったみたいに固まってしまう。誤審しないなんてありえない。「私は敵だとみなすようにしているんだよ、その誤審というものを。」

 

 そんなわけで彼は誤審を犯してしまったら、まずそのことを認める。カードを乱発してしまったアンコーナ対ピストエーゼ戦から、誤審を一度ならず犯してしまったフィオレンティーナ対ラツィオ戦まで彼はよく覚えている。ミラノ・ダービーでミランに与えたPK———インテルのGKジュリオ=セザールに対してとった———は実際にはファールでなかった。逆にチャンピオンズリーグ準決勝アトレティコ・マドリー戦ではバルセロナにPKを与えなかったこともある。

 異議を唱えられたものの、自分の選択(判定)が正しいのだと主張しているケースも幾度かあった。ユーロ2016のドイツ戦でフランスに対して認めたPKがそれだ。また、昨シーズンのトリノ・ダービーでユベントスのボヌッチと対峙した時の態度は少し腰が低すぎた。

 07-08シーズンのウディネーゼ対ローマでは、トッティが幾度となく「このくそ野郎!」と暴言を吐いたにもかかわらずリッツォーリは彼を退場にしなかった。当時トッティは他の誰よりも点を取っていて、その日のリッツォーリはセンス無いポジショニングでトッティのプレーの邪魔になっていた。後に「当時は辞めようかと思っていたよ」とまで打ち明けている。

 

 いずれにしても、彼はこう断言する。「誤審の帳尻を合わせようとする行為が一番重大なミスなんだ」と。大きな重圧の下に置かれたとき彼はいつも強靭なメンタルスキーマを作ることで対応しているという。

「私は、物事を決定できる人間を愛しているんだよ。」とは彼の言葉だ。

 さらに付け加えておくべきことがある。彼の考えでは、正しい判断をするためには、たくさんの準備が必要なのだということである。毎試合を比較・分析し、監督と選手の性格、どんな戦術を志向しているのかを予習しておく。非常に密度は高いが、それでも十分ではない。

 テレビ局La7のインタビューのなかで、リッツォーリは、「誤審は驚きから生まれるのだ」と説明している。さらに、怖かったエピソードやスタジアムで恐れを感じたエピソードについて尋ねられた時、リッツォーリは、「本当に驚いた」時のエピソードを語ることでその質問に答えた。

 

 セリエAに昇進したころ、リッツォーリは、アドバンテージをとった後にプレーが成功するのを見るのが好きなのだと語っていた。それは「自分の直感の正しさを証明してくれるものなのだ」と。周到な事前準備と同じように、当然ながらその直感も彼の仕事をいい具合に導いていた。

 2002年、セリエA初挑戦の年、彼は謙遜しかなりの幸運だったというが、メンタルレベルでそれを管理する方法も知っていたと認めている。「はじめからセリエAに到達することを目標に審判していたら、セリエAに到達することなどできないんだ。」

 担当した最初の試合、新人カテゴリーの試合の後、一人のコーチがリッツォーリの方につかつかやって来て騒ぎ立てた。「全くあきれるよ!お前に審判なんかできるか!」当時を回想するリッツォーリの顔に笑みはない。「(審判として成長した今なら)彼にもう一度会ってみるのもやぶさかではないんだけど。」

 問題は監督・コーチ陣との間にも起こるし、フロント陣とも起こるし、ピッチ上の選手とも起こる。彼は語る。「僕を困難に陥れる人間を見つけるのは良い気分はしないよ。でもそのような怒りは、審判する時に抱いてはいけない感情なんだ。」

 彼はフェアプレーを人生に誠実であることや人へのリスペクトと同じだとみなしていて、例えば両親を模範に内在化されるものだと考えている。「それは本能的なもので、理性的なものではないんだ。」

 

 大切なことは1人の主審と2人の副審のチームワークだとリッツォーリは考えてる。

「有能な副審なしには主審を務めることはできないんだよ。」

 

 彼はテクノロジー導入に対しては極端な肯定派でも否定派でもない立場をとっている。「人間の目では捉えられないもの」を見ることを可能にするホークアイの導入には肯定的だが、フィールド内のカメラによるビデオ判定には反対。追加副審を置くことには賛成の立場だ。

 

 また彼は、レフェリーは対話と歩み寄りの姿勢にオープンなタイプだと考えられている。高圧的な態度をとるのではなく緊迫した空気をほぐす存在だと。と同時に、彼のレフェリングは厳しくもあり、手荒いプレーについては信頼に任せて続けさせたりせず、すぐに罰した方が良いと考えている。心理学や非言語コミュニケーションにも注意を払う。他の試合の責任者たちとの会談ではこう説明していた。もしファールを犯した選手が謝りながら両手を挙げたとしたら、それは暗に「イエローにしてくれよ」と言っているのだと。

 「Iene」というテレビ番組におけるインタビューのなかで、リッツォーリは次のように言った。「試合のリミットを決めるのは選手たちなんだ」。彼の考えでは、試合の責任者である審判は、ゲームのあり方を決めるのではなく、ゲームのあり方に自分を適応させなければいけない。

 

孤独なレフェリー

 それほどまでに試合と、試合での自身の役割に没頭しているリッツォーリの状況は獄中にいるようなものですらあるがゆえに、なかなかピッチ外での出来事にまで気づけない。「集中するということは実にすばらしいことなんだが、同時に不遇な面もあるんだ。周囲の声援のような素敵なものになかなか気づけなくてね。」

 応援と批判。試合から帰ってくる時、彼の妻は毎回彼に聞くという。「今日はどちらが出てきた?私、それともお義母さん?」ピッチ内で散々に言われていることを知っているのだ。
 

 人が審判をするのには様々な理由があるが、その一つは人々の注目を浴びることである。

 

 道行く人にサインを求められることがあるのだ。「奇妙な感じだけど、まぁそんなこともあるよね。自分も審判をしてたっていうファンしかいないし、胸がいっぱいになるよ。」

 実際は、まるで選手だったかのように審判を追う人たちが存在する。BGMを重ねてリッツォーリの写真を編集したトリビュートビデオがある。W杯の試合中、大スクリーンに映った自分の姿を見て髪の毛を整えた彼の虚栄心を皮肉るビデオがある。

 さらにはリッツォーリの誕生日のために歌を捧げる若い女の子のビデオまで存在する。彼女は、Grignaniという歌手の曲「La mia storia fra le dita」の歌詞を変えて歌を歌い、審判のユニフォームを着た自分自身の写真までそのビデオのなかで披露してくれている。

 

「ピッチ上では孤独だ。すべては自分自身にかかっている。」孤立状態と審判をする人の主役になりたいという気持ち、そしてより一般的には笛を吹くことの重みと影響力の同時性を、彼は自伝の中でまさに言い得ている。これらを手放すというのは複雑なはずに違いないのだ。

 

 彼の将来について話を向けると、若手の育成、できればユース年代の育成に携わってみたいと語った。非常に重い決心を既にしているから、審判経験者は政治に手を出すのは避けていると彼に話すというが、しかし、彼自身は政治に関する可能性を排除しなかった。それに「この世で最も素晴らしい」と語る建築士としての仕事も常にあるのではないだろうか。

 まぁ今は将来については考えていないし、考えようとする人物でもない。2014年ワールドカップの直後、彼は新たな目標を立てていた。まずは200に上るセリエAの試合を乗り切ることだ。既にユーロ2016のことを気にかけていて、その試合の審判に選ばれることは厳しいだろうと考えていた。「うまく行くことを願おう。僕はたくさん努力しなければいけないだろうね。」彼に割り当てられた試合数は昨年に200試合を凌駕し、最後のユーロ選手権にも行って準決勝を担当した。もし辞退をしていなければ、リッツォーリが2018年のロシア・ワールドカップでもイタリアの審判界を代表して参加していただろうと誰もが思ったはずだ。

 

 人が審判をするのには様々な理由があるが、その一つは自分の言うことを聞いてもらうことだ。

 

 彼が言うには、月の上にいるのならまずすべきことは地上に帰ってくることだ。毎回、目標達成をしたのちはすぐに、自分が何者でどこから来たのか思い出すことが彼の物の哲学だ。だからこそきっと、ブラジルワールドカップから帰国した彼は、来たるシーズンを前シーズンと同じ場所で始めたいと責任者に頼んだに違いない。彼が応援していると同時に唯一担当できないチーム、ボローニャの親善試合を―――。


文/トンマーゾ・ジャンニ

1985年ローマ生まれ。ひいきはラツィオ。著書にエウナウディ出版のシリーズもの小説『部外者』(2012)、『君を失う前に』(2016)がある。

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