「知識」は「知恵」にして使う
前回、知識について触れましたが大切な点を書き忘れてる事に気付きました。ただ今回の話題は少し理屈っぽい内容になりそうなので冒頭にお伝えしておきます
書物、教育、会話、実態など様々な状況から知識は得られますが、知識として記憶して褒められるのは学生時代まで、得た知識を組合せ『知恵』として使ってナンボが世の中です。
分り易い具体例なら、本日2月10日の前橋は降雪で屋根は真っ白、厳冬の雪山では獲物となる動物は冬眠で猟はできません。無理して雪山を歩き回れば自分の命を落とす事さえあります。
厳冬の時期は獲物がいないと知るのが『知識』、また凍らせたり乾燥させた肉は腐らず、燻製肉も保存できると知るのも知識~知恵を使った実態の『知識』、そこで秋までに猟をして乾燥、スモーク、冷凍保存等を利用して保存食で冬場を凌ぐのは『知識を駆使した知恵』なのだと思う。
少なくとも数十件の葬儀社と寺に行き話しを聞かせて貰いましたが、自画自賛ばかりで利用対象者から聞かされた希望、要望とは交わらず、寺も葬儀社も「してやってる感」がヒシヒシ伝わりました。
「うちのラーメン旨いだろ」的な発想をする店もあるようですが、ラーメンに限らず評判の良い店で食べて「旨い」と思った事はなく『言うほどじゃねぇだろ』が大半なので、自分も然りで押付けより「俺は何をすればあなたは喜ぶの!?」感覚のほうが確実で楽です。
勘違いしないで欲しいのは『こうすれば客は喜ぶ』では無いことです。
味の好みが個々に違うように各々価値感も違うし、同じ人でもその時々で価値基準は変化するので利用者全員を同じ基準で扱う『こうすれば客は喜ぶ』だけでは駄目、上記枠の16年前に得た知識を見ても人によって優先する基準が違うであろうことは理解頂けるでしょう。
利用共通の支援+個別対応で『利用者の持つ諸条件を知る』こと、そして過去の経験や知識と合わせてた提案で初めて各利用者にとって価値ある葬儀支援と成り得る事が『知恵』だと思います。
一時の繁栄は少し目先を変化させるだけでも可能、されど十年以上利用者が増え続けるは利用者から見て「本物」でなければ成し得ません。当方は「支援センター」なる文字を使う事で周囲からのハードルを上げ且つ自戒でもあります
僕が菩提寺の葬式を受けない理由のひとつもこれです。自分は修行した宗教者であると吹聴し法話だけは立派ですが、余裕の無い家族にも数十万円の謝礼を当然の如く請求する
法話と違い過ぎて薄っぺらな金の亡者にしか見えず、残る家族の生活が守れる葬式を目指す我々と根底が違い過ぎてまともに話しをする気にもなれないからです
僕自身は決して立派な人間ではなく、褒められる人生を歩いてきた訳でなく、煩悩ある凡人ですが、葬儀支援という無双の道と出逢い煩悩を表に出せない状況が続いてるだけ、ただその道が予想に反し心地良く年を追う毎に賛同者が増え続け気付けば辞められなくなってた16年という感じです。
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参考資料(お時間のある時にでも読んでみてください)
あんしんサポート葬儀支援センター
代表ブログ 葬儀支援ブログ「我想う」
無信仰者の葬式参考書
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