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惰性とコスパの煮凝り - 2024年10月6日の日記

今日も今日とて、クライミングをしに出かけた。昨日はボルダーだったが、今日はリード。もはや記憶にないが5年程はブランクがあるのではないか。感想としては楽しめたし、楽しかったが、合計で10便も出してない気がするのはもったいないかな。

改めて、趣味がクライミング一辺倒になっているな…とは思う。クライミングは他人とワイワイやってもいいし、一人寡黙に集中しても良いという、多面性を持っているところが飽きないので魅力なのだけど、果たして今後はそれでいいのか。続ける理由は?続けるにしてもその比重は?費やす時間・金銭は?等、色々な事が頭の中をぐるぐる回って結論が出ないうちにすべて忘れて別の事を考えたりしている。


今日一緒に登ったホームジムの友達と、ジムの初心者向けスクールに通っても成長できなくてスクールを辞めた人の話をした。

初心者向けスクールは初心者向けなので、基礎的な技術や知識の獲得とジム友達を増やす事が目的であると私は解釈していた。しかし辞めた当人にとってはお金を払って教えを乞うている以上、能力的な成長というリターンが欲しかったそうだ。

ボルダリングというものは怪我や故障のリスクもあるし、毎週ちょっとワイワイ登るだけでは成長はできない。各々の継続的なモチベーション・トライ中の集中力が多く要求される。当然身につけているムーブ、下から課題を観察してムーブを想像する引き出し、そしてその通りに身体を操作して出力する能力も必要。更には体格差という資質に加えて体重管理や地味な筋力・柔軟性トレーニングも要する。

つまるところ、「心・技・体」の三要素が必要なのにも関わらずスクールで「技」の一部を教わっただけでは成長は見込めない。あえて厳しい言い方をすれば"そんなに甘くない"ということだ。

ボルダリングをするのも自由だし、しないのも自由。続けるのも辞めるのも自由意志。向いていないな、楽しくないな、と思ったらスパッと辞めて別の事をした方がいいと思う。そもそも数ある趣味の一つでしかないし、やらなくても支障はない。(ただしこれは、クライミングを話題にした時のクライミングができる人からのポジショントークンである)

私はこういう、問題に対して「どうして辞めたんだろう」といった建設的な考え方をせず議論を土台からひっくり返すようなニヒリズム(虚無主義)的な性質がある。その当人にとっては「その場所」「その日時」「その行為」である必要があったのかもしれないのに…。


同様の考えを自分自身に適用したところ、「惰性とコスパの煮凝り」という結論が今のところしっくりきている。

友達に誘われて始め、ジムが家から近かったから続け、運動習慣を維持でき、健康に大きく寄与し、必要な用具も安く、安い施設費を払えば比較的どこでもでき、一人でも多人数でもでき、都心でも自然の中でもできる、という。これが正解なのかどうかは今後も頭の片隅で考え続けることだろう。

私自身に才能がなかったり、環境が悪かったところからは逃げ続けて今の位置にいるわけだし。今は「人生の幸福とは」「それはこの位置から掴めるのか」がメインテーマ。



『ただしい人類滅亡計画』を読んで哲学の一端に触れ、『水中の哲学者たち』を読んで(聴いて)(まだ途中)、ただ考えるという行為を肯定されてからこういうことを考えることが増えている。哲学科に進むという分岐路は私の人生にあったのだろうか。

根本的に他者への興味関心が薄いため、他者の話を聴く哲学対話は私に適正があるかは未知数だ。機会があれば体験してみたい気持ちはある。


ただ、日々平穏に深く考えずに笑って過ごす人生のほうが幸せの総量は多いんだろうな、とも思う。

今日の一枚。頑張っている姿より、失敗して放心している状態に魅力を感じる。これは恐らくそういう趣味嗜好。

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