★音楽の書き物についての反省😭②(つづき):まいにち100字【24日目】

・前回の要約
①歌詞分析だけでは音楽の研究にならない
②書き手の手軽さや読み手の理解しやすさから、歌詞分析をしてしまいがち
③客観的資料を用いて作品の美学を再構築する方法、の経験がある(しかし、これには労力がかかる)
④美学と作品の関係性を突き止める(これは規範的過ぎるかもしれない)
⑤身体性に依拠した(残余や細部に注目する)作品分析は主観的であり、③の美学との関係性が分かりづらい

・資料を集め客観的に再構築するという部分と、あらゆる分析の枠組みから滑り落ちた残余を主観的に書くという部分は両立しない。それらを無理やり混ぜ合わせたのが混乱の原因ではないか。

・また、残余や細部についての記述は、自分の美学(や思想/政治的立場)を記述に混入している可能性が高い。そもそも細部とは、通常の物差しでは測定不能な部分であるので、いわばカオスである。既存の物差しで計れないカオスを言葉で分節し、認識できるものとして取り出しているとも言えるが、そもそもカオスは存在しているのかさえ怪しい(あえて衒って言えば、細部とは、存在の「揺らぎ」である)。それは観測者の幻想、妄想、見間違い、勘違いかもしれない。そうした記述は、あるデータのひとつとして扱うことはできても、一般化した線分や曲線に含むのは間違っている。残余や細部についての記述は、いわば(比喩としての)外れ値である。
*こうした外れ値が、既存の理論を裏切り、破壊する可能性を秘めていることをディディ=ユベルマンが書いた、と筆者は解釈したが、読み直して確かめる必要はあるだろう。

・だから、主に批評的文章において、細部に拘泥した文章を書くことは大いに奨励されるどころか、本来そうあるべきである。

・しかし、研究や、研究とは言わないまでも一定の客観性を担保したい文章の場合、上記の内容を含むと混乱に陥る可能性が高い。とりうる方法としては、大雑把でも良いので線引きを試みることかもしれない。たとえば、ある歌唱法に関して厚みある記述を行いたくても、客観性を担保したいタイミングの場合、禁欲的にあえて平凡かつ素朴な記述を行うことは正しい。

・最近、田中純のボウイ論を読み始めているが、ここには歌い方に関する細かい記述が含まれている。たとえば「それは病院の患者への隔離を批判する、歌の外部からのコメントであり、それを語る声は左右に不安定に揺れ動くとともに、重ね録りによる複数の声が微妙にずらされている。そこにはさらに、堅苦しい語調の別の声が加わり、最後の部分では、ピッチを上げて作り出された幼女のような声がこう語っている[……]」という一節(24頁)。この記述は、決して「深い」記述ではない。「重ね録りによる複数の声」にはどのような種類の、どのような強さ/滑らかさの声が含まれるのか、なぜ「幼女」という比喩を用いることができるのか、そうした細かい問いを発することはできる。ただ逆に言えば、必要最低限の記述にとどめ、深すぎる記述からは距離を置いている。実に簡潔で禁欲的な記述と言えるだろう。
**このボウイ論に関して言えば、あまりにも膨大な紙幅のため、深い記述は削っている可能性も高い。

・美学という文脈情報と、作品分析に基づく本質情報(これは今考えた造語)は切り離すべきか、という問題も次回から考えたい。

今回はおわり❗️

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