限界を設ける人
会社にとても魅力的だと思える女性がいるが、
何故か鬱で突然暗くなり、泣き出し、帰ってしまった人がいた。
仕事で関わる人なので、しかも年は下だが仕事を教わっており
自分にとっては重要でもあるから、何とか立ち直ってほしいと
自分から見れば恐らく子供になっていてもおかしくない年の差
からか、人生経験豊富な自分?から見て恐らく視点を変える事により
より楽に生きられるのではないか?
しかしこのような視点は普通の人から見えれば『余計な事』と
なるのであろう。
何度か自分のボケ話をして、『人生はこんな馬鹿でも楽しく生きていける。』ボケる事で、相手に余裕を持たせるというか、まじめじゃつまらない。人生色々な視点がある。というような事を回りくどく説いたつもりだが、彼女は『会社の人とはあまりかかわりたくない。』というのが本心らしい。ある意味、自分とは全く違う価値観。
まぁわからないでもないが、人生の学びとは恐らく人間関係からが一番というか、恐らく魂の学びは人間関係からしか来ない。
何故か?それは知り合う人間の全てが自分を映し出す鏡を持っているからである。その価値観がわからないと人間関係の重要さ、人と会うという価値を見出せないのかもしれない。
通常一日のうち8時間は仕事をしている。
ほとんどの人間は『お金のため』に仕事をしているのであろう。
前の会社がそうであった。そういう人間が多いと社内がギクシャクしてしまう。お金のためとなると効率を重んじる。できる人、できない人、効率の良い人悪い人、そんな価値観で人を測る。そうなるとどうなるか?
それ以外に会社という集団になにがあるのか?と思う経営者もいるかもしれないが、従業員に対してのリワードが報酬でWIN WINであるかのように見えるが、自分はそれだけではないと思う。
やりがい。ももちろんそうだが、人とコミュニケーションをとる事によって
その人を知る。日本の古い文化で仕事後の『お酒の席』現代は少なくなってきた。特にコロナ禍であることで、人のコミュニケーションを必要以上に取らなくなってきた。
スピリチュアル的に観ると非常にまずい。
元来の人間の学びがうすれてくる。ITが進み人が苦労する場面がどんどん少なくなる。人間が人間とかかわる事がどんどん少なくなる。そうなるとどうなるか、人が支配され、人との関係が薄れ、機械的に行動し、恐らく社会が崩壊するだろう。なぜか?人のストレスは解消しなくなるからである。
人の思考の中には『なぜ』と考える事が基本的にあるからである。
しかし、便利な世の中、スムーズな世の中、問題定義をしなくてもいい世の中、自動化が進む世の中、と人が五感をちゃんと動かしていた時代から色々考えなくてもよい時代に変化していく事で、『なぜ』と考えなくなってきている。
発想の転換が変ってきているのかもしれない。
より機械的に。で、AIが感情を持ち始めていく時代にうつり、いずれ機械がの方が優れ初め人間を使うようになってくる。そうなると人の世界というものが意味をなさなくなる。
視点を変える。
自分自身の世界の見方は違う。
別に特別と言っているわけではなく、
人は経験してきた事、影響を受けてきた事、それまでの人生でどう感じてきたかで、物の見方が違う。極論を言えば世界の見え方が違うわけだ。
人は生きていてただ単に流されている人生だと
不思議に思わずにものをこなしているだけ、思考停止となってしまって
目の前にみえるものだけが真実となってしまう。
しかし、人生を深読みしていく事によって、毎日の出来事や
実感できるものが意味を成していく。
『なぜ』と思う事。
反面、なぜと思わない人は『~だから。』という理解で流してしまう。
~に入る言葉は恐らく、『普通』とかじゃないか。
上司から仕事を明け渡され、『これをこういう風にしておけ』と指示される。それに対して部下が、『はい、と言い期限までに見栄えが良く仕上げる。』というのが通常の流れであろう。
しかし、そこに意義を申し立てると、
『はい、しかしなぜこういう風にするのですか?逆にこうしたら、会社にとっていいのではないですか?』と普段から『なぜ』という習慣がある人は
すんなりと人の指示が受け入れられない。
ホリエモンを見ていたりするとそういうところが多い。
自分でも逆に『そんなところで疑問に思うのか?』
『受け流した方が楽だろう』と思ってしまう。
人はそのバランスで生きているんだろうが、
それを決めるのは自分自身。
人は途中で『妥協』を覚えてしまう。
いつしか、『人はなぜ生きるのであろう。』
『なんで人は死ぬのであろうか』という単純な疑問を忘れてしまう。
これは人間にとって重要な哲学であって、簡単なようで奥深い
死ぬまで必要な人生の定義ともいえる疑問『なぜ』でだといえる。
自分の学びは『魂の喜び』であり、ただ楽しい、ワクワクする事をする。と
唄う人がいるが、『楽あって、苦ある』『苦があって、楽がある。』そうでないと本来の喜びはないのである。
逆に嫌な事ばかりがあって、ささやかな喜びがある。その方が
本当の喜びを知る事ができるのである。
子どもの頃から金持ちで、苦労なく終わる人生を想像してみてほしい。
苦労をして喜びを感じた人はその重要性がわかっているから、容易に理解はできると思う。しかし、苦労をしていない人にとって何が苦労なのかわからにという事は普段から喜びしかない?
いやその苦労が無い事が苦労となるのである。
足元にある喜び(他人から見て羨ましいようなことはその人にとって見えないのである。)
恐らく、まじめで生きている世界が狭い人ほど、認知症になりやすい。
それは何故か、嫌な事が多いからではないだろうか。
その嫌な事を嫌だとしか受け取れない。
苦あり楽あり
不真面目という人は休むタイミングを知っている、ストレス解消法を知っている、すべての仕事をまじめに受け取らない。脱力である。
それを知っている場合、嫌な事を感じたときに楽しみを見つける
楽しみがあるから苦がある。と感じるようになれる。
ふざけたっていい。
気楽に生きればいい。
会社で鬱になるのであれば、会社を辞める。
それがベストな方法なのであろうが、その人が居残るのであれば
会社で馬鹿をする事で、それと同時にそれを自分自身が受け入れる。
私はふざけてもいい。というような自分自身に寛容的になる必要がある。
自分の学びのために、他人にもっと興味をもってば人生もっともっと
幸せになれるはずなのに。。。
昔の近所づきあいは無くなっている。
隣に誰がいて、どんな生活をしていてなんて干渉をしない。
今はそういう時代だ。
だから鬱な人が多くなったと言っても過言ではない。
確かにくだらない話を毎日長々とされる苦痛はある。
しかし、隣が誰か、何をしているか、何を思っていきているのか
がわかると安心しないか?
またとりとめない話となってしまった。