熱狂
ぐしゃっ。だか、ぐにゃっ。だか、そういったような、自分の頭が潰れる音を、青田は他人事のように聞いていた。飲んでいた缶チューハイの中身が床に広がっていて、その炭酸の泡がポコポコと浮いている水面に、真っ赤な液体が混ざり、透明だった酒は青田の垂れ流す血液に侵食され始めていた。
青田は、気分が悪くなってきた。痛いのは勿論だが、自分の血が混ざった酒は酷く不味そうだし、殴られた頭はなんだかぐにゃぐにゃに凹んでしまった気がするし、まだ青田の頭が凹んでいなかった時に食べたホルモンが生焼けだったようで、胃がムカムカしていた。
トイレを借りようかな、と思い、この家の主であり先程まで平和に談笑しながら酒を飲み交わしていた男に目を向けると、彼は先端の凹んだ金属バットを手に、ぼんやりと青田を見下ろしていた。
あ。俺はコイツに殴られたのか。青田はようやく、それを理解した。
「えっ。なんで」
理解はしたが、意味はわからなかったので、そう聞いてみる。金属バットがやけに似合う元野球部の男、柳川は、人の頭をバットでフルスイングした直後とは思えないほど平然とした調子で答える。
「だって、青田先輩が、死んじゃったから」
「いや、まだ生きてるけど。お前に殺されそうになってはいけるけど」
「違うんです。青田先輩は死んじゃったんです、とっくの昔に」
「は? なに?」
「俺の中の天才・青田先輩は、もう死んじゃったんです」
青田は、柳川の頭が近頃の異常気象とも言える暑さにやられておかしくなってしまったんじゃないかと心配になった。
「お前、大丈夫? 頭」
「頭が大変なのは、先輩の方っすよ」
お前が大変にしたんだけど。青田は思ったがしかし、それを言ってもう一回フルスイングされたら頭が粉々に砕け散り、柳川の意味不明な言葉の真意を解明出来ないままあの世に行き、人生最大の心残りが柳川になってしまいそうだったので、なんとか飲み込んだ。
「とりあえず、座れば?」
「俺が初めて青田先輩の存在を知ったのは、高校生の時でした」
「ねー、バット下ろせば」
「サンブアップってライブハウスでした。友達のバンドが出るって言うんで、まぁ仕方なくというか、見に行ったんです。高二の夏だったかな」
「床ビッタビタなんだけど、これ拭かなくて大丈夫? お前もうすぐ引っ越すんでしょ? 敷金帰ってこねえよこれ多分」
「高校生バンドのライブなんて、まぁたかが知れてるじゃないですか。思い出作りというか、そもそも本気でやってる奴なんていないし、楽しければいいって感じで。八割がコピーだし、オリジナルだったとしてもまぁどっかで聴いたような曲だったり、自分に酔ちゃってるような恥ずかしい歌詞だったり」
「ねぇ血ィ止まんねーんだけどタオル貸して。つーか救急車呼んで」
「内輪ノリっすよね。勿論悪いこととは思いませんでしたし、俺も友達のバンドを楽しく見て、普通に帰ろうと思ってたんですよ。そもそも楽器の上手い下手とか、音楽理論とか、当時は何も分かってなかったんで」
柳川は、びっくりするほど人の話を聞かなかった。普段は非常に聞き上手で気の使える後輩なので、青田は目の前の男が本当に柳川なのかいまいちわからなくなってきた。
柳川は続ける。
「そこに、青田先輩がアコギ抱えて一人で出てきたんです」
へぇ。青田は、ぐわんぐわんと揺れ、ずきんずきんと痛む頭でどうでもよさそうに思った。そんな十年近く昔の話なんて、覚えていなかった。
「今でもハッキリ覚えてますよ。酔ってたんだかキマってたんだか知りませんが、フラフラ出てきてボソボソ挨拶したあと、最初にザ・フォーク・クルセダーズの悲しくてやりきれないをやったんです」
「そりゃキマってたんだな。酔ってたら村八分をやってたはずだ」
「ギターが鳴って青田先輩が歌い出した瞬間、それまで喋ってた奴も酒飲んでた奴も携帯いじってた奴も、みんなが一斉に青田先輩の音に意識を持ってかれたんです」
「まぁ、俺は歌が上手いからね」
さすがに「みんなが一斉に」は盛りすぎだとは思うが。柳川は青田の軽口を否定することなく、むしろ当然だとでも言うようにやや頷いて、バットを握り締めたままなおも続ける。
「天才だと思いました。天才ってやつを、初めて生で見て、聴いているんだと思いました。感動とか興奮とか、そんな生ぬるいもんじゃなくて、一方的な暴力を逆らう術もなく受け続けているような。抵抗の余地なく発狂させられていくような感じでした」
「お前すごいね。詩人とかになったら?」
「そのあと、即興で三曲やって、最後に団子三兄弟やって帰って行きました。客席はすっかり熱狂してて、次のバンドなんか誰も聞いちゃいなかったですよ。俺はもう、頭空っぽになっちゃって、気づいたら中古家でギターを買ってたんです。野球部なのに」
「え、お前がギター始めたの俺キッカケかよ」
青田は、柳川が自分のファンで自分に憧れを抱いているということは出会った当初から聞かされていたが、まさかそれほどまでに影響を与えていたとは知らなかった。
「別に追いつきたいとか思った訳じゃなかったんです。ただ、憧れてしまってどうしようもなくて、少しでも近づきたかったのかもしれません」
そんなようなことを言ってくる奴らが、何人か居たなあ。と、青田は顔も思い出せない彼らのことを考える。
天才だと持ち上げられたり、ファンだとか憧れてるだとかをやけに言われるようになったのは、アコースティックギターを触り始めて数ヶ月経った中学三年生あたりだったろうか。歌は元々好きだったし、ギターもさほど練習せずとも基本は抑えられるようになった。何曲かコピー出来るようになって、駅前やライブハウスで弾き始めたら、あれよあれよという間に名前が広がり、じゃあ適当に曲でも作ってみるかと思い実行すると、爆発的に人気が出たのだ。
「それ以来、青田先輩の活動をずっと追っていました」
「はぁ。熱心だね」
「卒業して自分でもバンド組んで、必死にやって青田先輩と同じライブに出れた時は、マジで嬉しかったんです。打ち上げで仲良くなって、その後も交流が増えて……」
青田は、柳川と初めて会った時のことを思い返してみた。やけに緊張した面持ちで挨拶をし、その後もそわそわと落ち着かない様子だったのを覚えている。酒が回って徐々に打ち解けてからは、青田のどの曲が好きだとか、どのライブでのアレンジが良かっただとかを、心底嬉しそうに語ってくれたものだ。それが今、無表情でこちらを見下す男と同一人物だとは、時の流れというものは残酷らしい。
「でも、そのせいで、俺の中の青田先輩は死んじゃったんです」
柳川は言った。そして一息ついてから、堰が切れたように喋り出した。
「俺の憧れた青田先輩は、誰にも手の届かないところで、一人でギターを触っては凡人には到底思い付かないような曲を歌詞を気まぐれに作って、その神に愛されたような唯一無二の恐ろしさすら感じる少年的な柔らかさと絶望的な冷たさを持ち合わせた声で歌い上げる絶対的な神様だったんです。他と比べることすら罪だと思わせるほどの、圧倒的な才能を持って生まれた絶対神だったんです。それなのに俺と知り合った頃の青田先輩は、曲作りなんか二の次でファンの女にひょいひょい手を出して、ライブやスタジオ練よりもセックス優先。昼夜を問わずセックスセックスセックス。しかもセックスした女に本気で惚れて情けなく縋って、バンドマンとは付き合えないって言われたら就職するとか簡単に言い出すし。結局フラれて泣きながら俺や周りに相談してきて、そのクソつまらないクソしょうもない失恋をあろうことか歌にしてクソつまらないクソしょうもない低俗で劣悪極まりない曲を作ってその辺のバカ女御用達バンドと同じ枠にわざわざ落ちて。そんでまた股の緩いバカ女がファンになってそいつらに手出して同じことをぐるぐるぐるぐる繰り返して。いざ曲作るってなっても何も思い付かないだ俺には才能がないだ喚いてまた女に逃げての悪循環で新曲を一向に出さなくなりましたし。それでタイアップ曲何度か飛ばしましたよね? 干されて仕事減って評判も地に落ちましたよね? スタッフもサポートメンバーも、どんどんアンタのこと見放して行きましたよね。去年のフェス、覚えてますか? 俺らのバンド、アンタよりデカいステージでやったんですよ。今年のフェス、アンタ呼ばれてないけど俺らは出るんですよ」
青田は濁流のように激しく飛び出す柳川の言葉たちを、少し恥ずかしいなあ、くらいの感覚で聞いていたのだが、フェスの件だけは少しこたえた。
「いくら女にうつつ抜かしてようが、仕事飛ばしていようが、人気が落ちようが、それでもあの才能さえ健在ならば俺はどうでも良かったんです。なのに、何なんですか、一昨年のアルバム。あんな、つまらない……本当につまらない音楽を、ほんとにアンタが作ったんですか。アンタが良しとして、アレを出したんですか」
柳川の表情を見ても、怒っているのか悲しんでいるのか判断が難しかった。青田は床に転がった缶を無意味に潰してから言う。
「ああいう方向性で行ってみろって、事務所から言われたんだもん。今はそういう、感傷的な切ぁない恋愛ソングが流行りなんだと」
青田が言い終わるや否や、柳川がローテーブルを蹴飛ばして、この家の中で辛うじて平穏を保っていた卓上の風景すら無くなってしまった。今や床の上は血と酒と飯とツマミが散乱し、パニックホラームービーの撮影中だと説明されても納得いくほどに酷い有様だった。
「そんな意見を、受け入れたんですか。そんな青田先輩なんて、俺は認めません。許せません」
額を拭うと、血と汗でぬるぬると滑った。血の固まり始めた箇所に触れたら、チリリと小さく痛んで、やがて熱を持ち始めた。
青田には、柳川の気持ちはよくわからなかった。しかし、柳川が今青田の口から聞きたくないであろう言葉はよくわかった。
「しょうがねえじゃん。だって俺もう人気も金もねぇんだもん」
柳川が眉を寄せた。青田は続ける。
「昔はさ、好きにやってたら勝手に持ち上げられて、持て囃されて、いい気分だったよ。でも、その分どんどんハードル上がって、何出しても文句言われるようになって、全然楽しくなくなった。それでも頑張ってみようって思ってちゃんと考えてさ、頭使ってマジで死ぬ思いして作ってみたら駄作とか言われんの。俺もう昔の俺に勝てねえじゃんって思ったね。何も楽しくない、超辛い。唯一楽しいのなんてセックスぐらいだよね。もうセックスしかしたくねえよ、セックスしてる時は俺が天才だとか凡才だとか音楽とか金とか仕事とか考えなくて済むもんね。そもそもさあ、俺に才能なんてなかったんだよ。お前らが面白がって持ち上げて、俺をその気にさせただけだったんだよ。たまたまちょっと目立ってただけの俺に熱をあげた気になって、盛り上がってただけなんだよ。楽しいもんな、天才って枠を嵌めた自分とは無関係な奴を盲信するのは。カルト宗教にハマる奴らって、こんな感じなんだろうな」
「違います、本当に天才でした」
「お前がそう思いたいだけだよ。気づいたらギター買ってただ? お前はあの日俺を見なくてもそうしてたよ。俺じゃない誰かに勝手に感動して憧れてギター初めてたよ。お前だって、俺の美化した思い出に縋ってるだけだよ」
今度は、ゴッ、というような、重たくて嫌な音がした。二度目のフルスイングは、もはや痛みを感じることはなく、ただ熱いという感覚が打たれたところから全身に広がっていくだけだった。
っていうか、どうせならバットじゃなくてギターで殴れよ。と思ったが、もう声を出すのも億劫だった。急速に眠気が襲ってきて、瞼が重たくて仕方がなかった。必死に抵抗して目を開くと、柳川の顔がぼんやり見えた。憧れすらした先輩の頭を二回も金属バットで殴ったくせに、先生に怒られた小学生のようなしょぼくれた顔をしている。
青田はなんとか口角を持ち上げて「残念でした」と悪態をついた。
遅えんだよ、お前は。何もかも。声になったのかはわからないが、そう喉から絞り出すと、柳川がもう一度バットを振り上げたのが見えた。
悪いことをしたなあ、と思いながら、目を閉じた。あぁ、やっと終わる。青田は、随分と久しぶりに、穏やかな気分だった。
了