
会長の研究室#2 【二.二八事件】
長編論考:台湾二.二八事件と民主化
はじめに
そもそも、なぜ我々は台湾史を学ぶのでしょうか。それは、台湾の歴史が単なる異国の存在ではなく、日本史と深く結びついた、いわば「日本史外伝」のような関係にあるからです。
1895年に集結した日清戦争後、台湾は日本の統治下に入りました。以降50年間にわたり、台湾は日本と政治、経済、文化などあらゆる面で密接な関係を築きます。この時代に、台湾では日本による様々な統治政策が実行され、インフラ整備や教育制度など近代化が進められました。
一方で、台湾には日本の文化や習慣が流入することになります。これは、台湾の人々にとって「日本」という存在を意識せざるを得ない時代であったと同時に、日本にとっても、初めての外地運営に奮闘した時代でもありました。
この論考では、「日本」と「中華民国」という2つの「祖国」を短期間のうちに経験した台湾の近現代史を総覧しつつ、国民党による大規模な政治弾圧「二.二八事件」を読み解きます。
そして、この事件がいかなる道のりを経て、台湾人固有の物語「ナショナル・ヒストリー」へ昇華していったのか、解き明かしていきたいと思います。
ようこそ、台湾近現代史の世界へ。
Ⅰ 日清戦争と下関条約
台湾はかつて、オランダの植民地でした。しかし鄭成功が台湾 を奪取し、鄭氏政権を建設。1684年以来、この島は長らく清朝の 統治下にありました。ですが、1894年に勃発した日清戦争によって、こ の体制は終わりを告げることになります。
日清戦争において、日本軍は快勝を重ね、ついに1895年4月 17 日に日清両国の講和会議において、下関条約が締結されました。朝 鮮の独立や賠償金2億両のほかにも、台湾の割譲が定められたのです。
条約の調印は前述した日時をもって行われました。しかし、台湾の割譲は思い通りに進まなかったのです。

1895年年4月18日、台湾士紳(現地の有力者)らは、台湾巡撫の唐景崧に対し、日本に対する徹底抗戦を呼びかける旨の電報を送りました。以下は全文です。なお、和訳部分は筆者が全手動で翻訳しています。
「 和議割台,全台震駭,自聞警以來,台民慨輸餉械,不顧身家,無負朝 廷。列聖深仁厚澤二百餘年,所以養人心,正士氣,為我皇上今日之用, 何忍棄之。全台非澎湖之比,何至不能一戰!臣等桑梓之地,義與存亡, 願與撫臣誓死守禦,設戰而不勝,請俟臣等死後,再言割地。皇上亦可上 對祖宗,下對百姓,如日酋來收台灣,台民惟有開仗,謹率全台紳民痛哭 上陳等因,乞代奏。」
(台湾を割譲するための交渉は、全土に衝撃を 与えた。警察の発表以来、台湾の民は自身の富に関係なく財産を 浪費し、法廷でも失敗した。列聖たちは200 年以上にわたって非 常に慈悲深く、人々の心を養い、士気を正してくれた。そのため に彼らは今日、我らの皇帝のために用いられている。なぜ(台湾を)放棄するのか。台湾 は澎湖に比べれば何でもないのに、なぜ戦えないのか!我々は撫臣(唐景崧)とともに、 死ぬまで祖国を護ることを誓う。しかし、私が戦いで勝利しないことを望む。私が土地を 割譲する前に、私が死ぬのを待ってほしいからだ。皇帝は祖先や人民に対処できる。例え ば日本の酋長(明治天皇)が台湾を占領しに来た場合、台湾人民を率いて戦争をするしか ない。台湾人民は慟哭している。 助けてくれ。)
清朝の当局者の中で、最も唐景崧と緊密に連絡を取り合い活発に活動したのは、南陽大 臣兼両江総督の張志東でした。
彼らは下関条約の内容、特に遼東半島の帰属をめぐって、 ロシア、フランス、ドイツの三国が干渉を行っていることを知ります。
しかし、この三国は、あくまで遼東半島の返還を要求し ただけで、台湾の返還は要求しませんでした。日本は、引き続き 台湾を領有することができたのです。
台湾士紳らは列強の介入を待って、日本による台湾統治を止めようとしました。しかし、その目論見が破綻してしまった彼らは、唐景崧を総統として、「台湾民主国」の建国を宣言します。しかし日本軍の攻撃の前に共和国はあえなく崩壊します。

短命な共和国の後に、原住民などによる抗日運動の種を残しつつ、日本による台湾統治が開始されることになりました。しかし、日本による台湾統治は大東亜戦争の終結に伴って終焉を迎えることになります。
Ⅱ 大東亜戦終結、国民党上陸
日本がポツダム宣言を受諾した1945年、当時連合国陣営に属していた中華民国の首席であった蒋介石は、台湾を「台湾省」として占領しました。そして1945年10月15日、中華民国の将軍陳儀は、貴公堂において日本軍の降伏を受諾しました。当時の台湾民衆はいわゆる「光復」を歓迎しており、かつてない熱意を示していました。彼らは積極的に「大陸」の文物を学び始めましたが、50年間の大陸と台湾の分断は深刻でした。

同年10月17日、台湾接収の任務を受けた第70軍の先頭部隊である第75師団が、基隆に上陸しました。「祖国」の軍隊帰還の報を受け、台中、高雄からも人々が駆け付け、日本軍を打ち破った雄姿を心待ちにしていました。ですが、大衆の期待はもろくも打ち砕かれることになります。当時の中華民国軍の容貌について台湾の文学者である葉石涛は、以下のように述べています。
「1945年10月17日、大陸の軍隊が基隆から上陸した。台湾青年は、基隆の港に展望台を造って、日夜その台から遠くを眺めて、大陸の軍隊が1日も早く到着することを期待していた。しかし、彼らが見た70軍は、まったく軍隊としての様をなしておらず、また軍紀もよくない部隊であった。このことは、台湾の民衆に挫折感をもたらした。」
1945年末、台湾人たちは間違いなく「光復」に沸いていました。しかし、それはすぐに終わることになります。
Ⅲ 犬が去って豚が来た
事件の直接的な原因は、国民党上陸後の政策に求めることができます。陳儀は国民党の官僚らに対して「嘘をつかず、怠けず、くすねず」の三不政策を謳っていました。しかし実際、役所では汚職がはびこり、軍隊には規律がなく、勝手放題に何でも取り立て民間を煩わすばかりでした。さらに経済の破綻、大陸から持ち込まれた貨幣制度に伴うインフレなどによって、台湾民衆の不満は募るばかりでした。
当時の民衆はこの状況を「犬が去って豚が来た(狗去豬來)」と形容しました。日本統治時代に日本において台湾独立運動を指導していた王育徳による叙述の中では、このような記述がみられます。
「いまさらのように台湾人には日本時代が懐かしく思われた。台湾人は日本人を軽視して『イヌ』と呼んだが、『イヌ』は吠える代り番もしてくれた。中国人は『ブタ』だ。『ブタ』は食い漁る以外に能がない。」
このような社会不安や国民党に対する不満は、1947年2月27日に発行された「民報」の社説においてよく表現されています。
「最近物價突變地在高漲,整個的經濟社會在震盪著、人民生活極端困苦,奔走駭告朝不保夕。誰都在希望政府能夠有辦法,切切實實來個解決。人民實在太夠苦了。再提起日本投降時所自設想的美麗遠景,那只有癡人。人民現在沒有絲毫的奢望,只求在最底限度的安定生活。......〔中略〕貧者愈貧,富者愈富,其中間的距離加緊地在離開,這種社會實在太危險了。社會階層的分化和對立,這是社會不安的根源。這個趨勢走到極端,便會變成整個社會的動亂」
(最近、物価が高騰している。経済・社会全体が混乱している。人民の生活は極度の困難に陥っている。誰もが政府に解決策を見つけることを望んでいるのだ。誰もが非常な苦しみの中にある。日本が降伏した時に思い描いていた美しい景色を再提起すれば、それはただのバカだ。現在の人民には贅沢な欲望はなく、ただ最低限度の安定した生活を求めている。…(中略)貧者はますます貧しくなり、富者はますます富む。社会階級の分裂と対立は社会不安の根源であり、この傾向が進むと社会が混乱することになる。)
社会不安の防止を訴えるこの社説が掲載された日、台北市の延平路において、密輸たばこの捜索をめぐるトラブルが発生しました。これをきっかけとして、民衆と国民党の間に大規模な抗争が発生します。ついに暴動という形で、民衆の不満は表出することとなりました。
Ⅳ 二.二八事件の発生と経過
1947年2月27日、酒、塩、たばこ、砂糖などの販売を統制していた専売局台北支局の密輸取締官である伝学通ら6人の捜査員は、台北市の太平通で闇たばこの密輸を捜索していました。 しかし、彼らが現場に到着した時、密輸の中核メンバーはほとんどがすでに現場を去っていました。
そして彼らは、天馬茶屋の前で中年の未亡人、林紅梅を発見します。 彼女には2人の子どもがおり、さらに3人目の子を妊娠していました。 生活苦にあえぐ彼女は、闇たばこの販売で生計を立てていました。
捜査員は彼女から所持金と商品を没収。 返却を懇願する彼女を殴りつけました。 その場にいた大衆は怒り、捜査員らを包囲しました。 焦った捜査員らは、威嚇射撃を実施しましたが、流れ弾に当たって野次馬として来ていた男性1人が死亡してしまいます。

翌日2月28日の午前中、民衆は元凶となった専売局へ抗議に赴き、台北支局に突入。 多くの書類や器具を投げ捨てました。 午後、示威と請願のために多くの民衆が行政長官室前に広場に集まりました。 しかし、予期せぬことに行政長官室のバルコニーにいた憲兵が群衆に向けて機関銃を乱射し、数十人が死傷しました。 この時点で、事件は早期の収拾が不能となりました。

午後2時を回ったころ、民衆は台北公園(現二.二八紀念公園)に集結し、その後台湾放送局に押し入りました。 彼らは台湾全土に向けて日本語で放送を開始し、国民党の暴政に対して蹶起するよう呼びかけました。
当時、国民党とともに台湾に渡った人々は日本語ができないのに対して、日本統治時代から台湾に居住していた人々は、日本語教育を受けていたので日本語が使えました。
そのため「台湾人」を識別するために日本語が用いられたのです。
多くのマスメディアはこれをきっかけに厳しく監視・干渉されるようになり、自由な言論活動を行うことがほぼ不可能になりました。 なかでも、「民報」「人民導報」「大明報」など主要新聞社は閉鎖処分を受けました。
一連の騒動は全土に波及し、起点となった台北のみならず、第二の都市高雄でも民衆が国民党の暴政と戦うこととなりました。 これの詳細は「二.二八のいま」で述べます。
Ⅴ 戒厳令の発出

暴動の間、陳儀は事態を収拾させるため、台湾知識人や財界の実力者を呼びだし、二・二八事件処理委員会に任じて事態収拾のための案を作らせていました。陳儀はひそかに蒋介石へ電打し、大陸の精鋭軍の派遣を要請。 表向きは処理委員会に届けられた要求に応じるそぶりを見せ、大陸から援軍が到着するのを待っていたのです。
1947年3月8日、ついに大陸から派遣された部隊が基隆に到着しました。翌日、第21師団は台北に入城しました。その後南下し、各地で多くの虐殺と政治弾圧を行いました。死傷者が多く発生しましたが、その正確な人数はいまだに確定していません。
国民党は事件を「台湾共産党の暴動に、市民がのっかってしまった」と公に説明しました。しかし、実際に事件を「台湾共産党が」主導した事実はなく、当時の冷戦下における反共イデオロギーの枠組みに事件を当てはめたと分析できます。
事件の直後に戒厳令が発出され、事件についてはタブー視されるようになりました。これをきっかけに長い白色テロの時代が始まると思われがちですが、実際には1949年までのわずかな間、台湾には言論の自由がありました。だが、それは間もなく崩れ去ることになります。
1949年1月1日、中華民国中央政府は陳誠を台湾へ派遣しました。彼は国民党において極めて重要な人物であり、これは国民党が台湾を重視していることを示していました。当時、国共内戦はすでに終結が近づいていました。1月31日には北京が陥落、4月21日には共産党が長江を超えました。
5月19日、陳誠は台湾に戒厳令を布きました。これは軍事統治を意味していました。おそらく彼は、台湾を最終決戦の地とみていたのでしょう。12月7日、ついに国民党は台湾へ完全撤退しました。 また、蒋介石は紫禁城に眠る秘宝を3陣に分け、台北へ輸送しました。これらの秘宝は、台北の故宮博物館で自由に観覧することができます。
わずかな間存在した自由も、国民党の完全撤退によって封じられることとなりました。これを示す最大の指標が、四.六事件です。これは台湾大学などの学生が200名近く逮捕された、大規模な政治弾圧事件です。

また、日本統治時代から作家であった楊逵も逮捕されました。これをきっかけに、大規模な白色テロが開始されます。白色テロとは共産主義者を取り締まるための迫害、逮捕、虐殺などを指します。楊逵の逮捕をきっかけに、台湾は言論や政治活動の自由が極度に制限された、長く暗い時代へと突入していくことになります。
Ⅵ 党外運動の活発化と弾圧
台湾史を読み解いていくと、80年代後半から90年代初頭にかけて、大変革が起こったと言えます。80年代後半から台湾は雪解けの時期を迎え、長年抑圧されてきた社会運動が堰を切った水のようにあふれてきました。
では、このきっかけは何でしょうか。それは、70年代に巻き起こった党外運動でしょう。これは国民党の外部から政府を批判する言論活動を指します。出版物の中では、1975年に黄信介、康寧祥らが発行した「台湾政論」が最初の党外運動に関する言論、党外言論を取り扱ったものとなります。「党外」とは、「国民党以外」という意味です。

また、雑誌「美麗島」が1979年12月10日、国際人権デーに合わせて高雄で記念集会を開き、民主化と自由化を求めました。しかし当局が軍・警察を多数派遣し現場を封鎖したことで、大勢の負傷者を出すこととなりました(美麗島事件)。美麗島雑誌社や各地の事務所はその後閉鎖されました。
美麗島は党外運動を組織的に変化させる役割を担っていましたが、この運動も他の党外運動と同じく、弾圧の憂き目を見ることとなってしまいました。
Ⅶ 戒厳令の解除と民主化の始まり
少し時系列を遡ります。

1975年に蒋介石が死去した後、1人の臨時職を経て、1978年に新たに蔣経国が総統に就任しました。蔣経国は開発独裁を推し進め、台湾をアジアにおける新興の経済大国へ成長させることに成功しました。蔣経国の功績としては、本省人を多く政府内部に抱えたことなども挙げられます。これを代表する人事は、本省人の李登輝を次期総統候補に据えたことです。
なかでも蔣経国による最大の功績は、1987年7月14日に戒厳令を解除したことです。これに伴い、憲法の機能が回復され、言論・集会・結社の自由が保障されるようになりました。しかし、彼は1988年1月13日、糖尿病の悪化によりこの世を去りました。それに伴い、副総統であった李登輝が総統に就任しました。
他にも台湾が民主化に成功した要因として、蔣経国の方針転換のほかにもアメリカによる積極的な民主化関与、前述した党外運動の躍進などがあげられます。
Ⅷ 李登輝の政治改革

李登輝は1923年、日本統治時代の台北で生まれました。1942年に旧制台北高校を卒業し、同年10月に京都帝国大学農業経済科に入学しました。1943年には、勉強を切り上げて日本陸軍に入隊。戦後は台湾大学農業経済学部に入学し、その後アメリカで農業経済学の修士号を手に入れました。
李登輝は総統に就任した後、積極的に民主化・自由化を進めていきました。1991年には「動員戡乱時期臨時条款」を廃止して国共内戦を事実上終わらせ、万年国会を解散しました。翌年には憲法100条を改正して完全な言論の自由を実現させました。また1997年には「台湾省」を廃止し、台湾を「中華民国の一地方」から「中華民国の全土」としました。
Ⅸ 民主化と二.二八
李登輝の就任直後から数年間かけて行われていた事件の記念碑の碑文内容をめぐって、大きなせめぎ合いがありました。特に顕著となったのは、碑文の中に台北への派兵を決断した蒋介石氏の名を入れるかどうかという点でした。
結局、記念碑の落成直前の1995年2月14日、建碑委員会は碑文を工事の過程に含めない決議を出しました。碑文が刻まれるべき場所には、ただ「二・二八記念碑」と刻まれただけでした。
1997年2月28日、李登輝氏の号令によって事件被害者救済の記念式典が行われました。そこでは事実関係を徹底的に掘り下げることはせず、本質があいまいな国民理解にすり替えられてしまいました。
碑文には当時の行政長官陳儀氏にほぼ全責任を負わせる形の総括が書かれています。しかし、最終的に事件鎮圧のため大陸から「精鋭部隊派遣」を決定したのは、「民族の救世主」と呼ばれ、学校や関連施設には必ず肖像が飾られている人物、蒋介石氏であることも触れられていません。責任の対象として、蒋介石氏は描かれていないのです。
台湾の民主化時期の特徴の1つとして「ナショナル・アイデンティティ」の転換が行われました。「中華民国」から「台湾」へと変化していく中で、事件は「台湾人共通の悲劇」として描く方向に落ち着いていったのではないでしょうか。
Ⅹ 事件を取り扱ったコンテンツ
戒厳令の解除に伴い、事件にかかわるコンテンツの発行、上映が活発に行われるようになりました。以下に、いくつか例を挙げたいと思います。
映画「悲情城市」では終戦直後の台湾から物語が始まります。平凡な船問屋だった林一家は、上海マフィアとの抗争や二・二八事件に伴う弾圧に巻き込まれ、消息を絶ち、命を落としていきます。激動の時代に翻弄される林家の人々を描いた物語です。
また、日本統治時代を経験した老人たちのノスタルジーを最も的確に描写した映画として「多桑」があげられます。ある男が、「多桑」と呼んでいた自分の父親を回想する映画です。50年代末、多桑は台湾北部の村で暮らしていましたが、彼は妻に隠れて不倫や賭け麻雀に明け暮れていました。
ですが、そんな多桑も肺を患い、闘病生活を送ることになります。彼の最後の願いは、「日本へ行くこと」でしたが、それは叶わず多桑は亡くなりました。1990年のことでした。翌年、多桑の息子は遺骨を抱えて日本へ赴き、富士山と皇居を訪れるのでした。
日本語世代の台湾人は、ほぼ間違いなく事件を直接見聞きしています。その記憶はこうしたコンテンツに触れるたびにフラッシュバックし参照される、と東アジア文化論・思想史専門家の丸川哲史氏は著書で指摘しています。
さあ、これまでは事件をめぐる経緯やコンテンツなど、事件の「過去」について述べてきました。では、現在台湾では事件はどのように語られているのでしょうか。
Ⅺ 二.二八のいま
筆者は2024年9月5日から9日にかけて、台湾の主要都市において歴史探訪フィールドワークを行いました。忠烈祠や台湾大学、中正紀念堂や総統府に加えて、各地の博物館や二・二八紀念公園、高雄市立歴史博物館などを訪れました。

総統府の向かいには「白色恐怖政治受難者紀念碑」と刻まれた碑があります。また、高雄市立歴史博物館には事件に関する常設展示がありました。Ⅲで述べたように、台北だけでなく高雄でも事件が戦われました。博物館では事件発生当日のジオラマや確認可能な犠牲者のリスト、特製の壁画なども展示されていました。

一貫して国民党や蒋介石に責任を負わせるような展示ではなく、あくまで時代に翻弄された、台湾人固有の悲劇に帰着させている点が興味深いです。事件に至るまでの経緯や「日本」から「中華民国」へとネイションが再編される過程についても克明に述べられています。入場料は無料のため、ぜひ皆様も訪れてみてください。
Ⅻ 結論と考察
結局、なぜ事件は「ナショナル・ヒストリー」へと昇華したのでしょうか。要因は2つ考えられます。1つ目は民主化直後に2.28事件に関するコンテンツが多く公開されたことです。2つ目は民主化に伴った2.28事件の紀念式典において、蒋介石や国民党の責任を追及せず、あいまいな国民理解に帰着させてしまったことです。
では、事件は本来の姿を失ってしまったのでしょうか。答えは否です。現在、事件は多様な解釈ができます。それは国民党による弾圧の象徴であり、過去の悲劇でもあります。台湾独立の根拠にすることもできますし、悲劇を乗り越えた民族間の団結を訴えることもできます。
民主化に伴う情報公開によって、事件の存在が広く知られるようになったこと、そして、責任追及の曖昧さによって事件の解釈が多様化したこと。この2つの要因が相まって、二.二八事件は単なる「政治弾圧」から台湾の「ナショナル・ヒストリー」へ昇華したと考察できます。
おわりに
本論では、二・二八事件が台湾のナショナル・ヒストリーへと昇華していく過程を、歴史的背景、事件の概要、その後の政治状況、そして事件を扱ったコンテンツや現在の状況を通して考察しました。
日本統治の始まり、終戦後の国民党の台湾への上陸、そしてその後の混乱と民衆の不満の高まりが、事件の直接的な要因となりました。密輸タバコをめぐる偶発的な事件が、瞬く間に全島を巻き込む大規模な抗争へと発展した事実は、当時の社会の不安定さを如実に示しています。
戒厳令下における白色テロは、台湾社会に深い傷跡を残しました。言論の自由が奪われ、多くの人々が弾圧された時代を経て、台湾は民主化への道を歩み始めます。蔣経国の戒厳令解除、そして李登輝による民主化政策は、台湾の歴史における大きな転換点となりました。
特筆すべきは、民主化の過程で二・二八事件がどのように扱われたかという点です。紀念式典に代表される民主化後の事件処理において、蒋介石や国民党の責任追及が曖昧にされたことは、事件を特定の文脈に固定することなく、多様な解釈を可能にしました。この曖昧さこそが、事件を単なる過去の悲劇から、現在も議論され、記憶され続けるナショナル・ヒストリーへと昇華させた要因の一つと言えるでしょう。
事件を扱った映画や文学作品は、事件の記憶が世代を超えて語り継がれる役割を果たしています。特に、日本語世代の台湾人にとって、これらのコンテンツは事件の記憶を想起させる重要な契機となっています。もっとも、現在の台湾において日本語世代は絶滅危惧種となっていますが…。
筆者が台湾で実施したフィールドワークを通して、二・二八紀念公園や高雄市立歴史博物館で見た展示は、事件を台湾人共通の悲劇として描いている点が印象的でした。
結論として、二・二八事件がナショナル・ヒストリーへと昇華した要因は、民主化に伴う情報公開と、責任追及の曖昧さという2つの要因が複雑に絡み合った結果と言えます。情報公開によって事件の存在が広く知られるようになり、責任追及の曖昧さによって事件の解釈が多様化しました。
この2つの要因が相まって、二・二八事件は台湾のナショナル・ヒストリーとして、特別な位置を占めるようになりました。それは、過去の悲劇を記憶し、現在のアイデンティティを形成し、未来への教訓とするための、重要な歴史的遺産なのです。
引用文献
許世楷,2006,「日本統治下的台灣」,玉山社
周婉窈,2007,「増補版図説 台湾の歴史」,平凡社
丸川哲史,2007,「台湾における脱植民地化と祖国化 二.二八事件前後の文学運動から」,明石書店
丸川哲史,2010,「台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア」,講談社選書メチエ
丸川哲史,2000,「台湾、ポストコロニアルの身体」,青土社
李筱峰,1999,「台灣史100件大事(上)」,玉山社
李筱峰,1999,「台灣史100件大事(下)」,玉山社
國立臺灣歷史博物館,2020,「《民報》228事件期間報紙」, https://collections.nmth.gov.tw/CollectionContent.aspx?a=132&rno=2020.007.0028
國立臺灣歷史博物館,n.d,「党外雑誌」, https://www.nmth.gov.tw/jp/News_Content.aspx?n=7436&s=183558,(最終閲覧日2025/01/19)
國立故宮博物院,n.d,「年表」, https://www.npm.gov.tw/Memorabilia.aspx?sno=03002803&l=3,(最終閲覧日2025/01/19)
王彦威,王亮,1934,「清季外交史料」,『109巻』, 外交史料編纂處
陳儀深, 薛化元,2021,「二.二八事件の真相と移行期正義」,風媒社
王育徳,1970,「台湾 苦悶するその歴史」,弘文堂
参考文献
塩山正純,2019,「20世紀前半の台湾 植民地政策の動態と知識青年のまなざし」,あるむ
呂紹理,2006,「時間と規律 日本統治期台湾における近代的時間制度導入と生活リズムの変容」,交流協会
三尾裕子,2020「台湾における<日本>認識 宗主国位相の発現・転回・再検証」,風響社
林玉茹,李毓中,森田明,2004,『台湾史研究入門』,汲古書院
檜山幸夫,2004,「日本統治下台湾の支配と展開」,中京大学社会科学研究所
張原銘,2002,「台湾の歴史教科書における日本認識の一考察 ―『歴史』と『認識台湾』を中心に―」『立命館産業社会論集』第38巻第3号 157
李姵蓉,2008,「国内植民地としての台湾と台湾二・二八事件」『研究ノート』Core Ethics Vol.4
竹内康浩,2016,「芝山巖の現状 ~日台関係史の解釈をめぐって 2~」『釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-』第48号 9-20