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(仮)トレンディ電子文 第50回:あの頃に戻りたい

 記憶の中のトレンディ、1981年生まれの自分にとってそれは思春期までの一切となるはずなのだが、カルチャー(軽チャー)においてにぎやかな部分をどうも取り損ねている感がある。その頃の父はバブル期ならではの忙しさで、ロンドン・シンガポール・NYなど行ったり(普通にサラリーマンである)であまり帰ってはこなかったのだが、しかし今思えば「家父長制」そのものと言っていい、自身を軸としたルールをその不在のあいだにも確かに家族間にもたらしており、その仕事内容の中に「読売」関係のものが(新聞社に勤めていたわけではないが)幾つか含まれていたため野球は「ジャイアンツ」贔屓・TVは(NHKでなければ)日テレという状態、それは今思うと「トレンディ」を映す鑑としてのTV観からはズレている、を基本としていたのだ。つまりいまタイムリーに振り返られている「楽しくなければTVじゃない」史観を自分は生きたという気がちっともせず、朝起きたあと家を出るまでの眠い目で見るブラウン管では、日本の各所から天気を背丈ほどの大きさの温度計と共に伝え、野球チームの勝敗を本拠地各所のアナウンサー(すべて男性だったはず)が、それぞれのチーム色に塗られた顔がクルクル変わるマスコット人形を傍らに置きながらオーバーな感情と共に割り込みつつ解説し、やがてコーナーが変わりスラリとした体躯をグレーの細身スーツに包んだ白髪の黒人男性が、日本語で街角の(主に若い)男女をつかまえ英語のスピーチを強要していたのだ。そうしたせわしない展開がピアノの音と「朝のポエム」というひらひらしたフォントの画面で一呼吸されるあたりで時間切れとなり、もし学校と家がもう少し近ければ谷川俊太郎や大岡信といった名前をもっと身近に感じられる少年(?)になっていたかもしれないと思うと30分の登校時間を恨めしくも思うのだが、しかしそれらの番組カリキュラム(新橋有楽町的というか「脂っぽいエネルギー」でいっぱいな雰囲気であり、麹町がどのような文化圏かはさて置き、渋谷青山から途方もなく遠いという感じがする)と同じ時間に放送されて討ち死にとなった「FNN朝駆け第一報!」「FNN World Uplink」という番組については記憶に無いどころか、下卑た動機から「鹿内家」についてネットで調べ始めた先週に、その存在をようやく知ったばかりなのだ。

 音楽番組についての記憶が希薄なのもそうした環境(トップテンは90年に終了している)が影響しているのは間違いなく、いま自身の記憶にトレンディな景色と共に流れる膨大な数の楽曲は大半が後追いである(明菜の後追いにまつわるセンセーショナルな出来事については以前書いた)。それでも楽曲の断片がリアルタイムの記憶と共にあるというケースも幾つかあり、父以外の家族揃った大みそかの、その時は自分の背丈より高い位置に置かれていた2階の小さいTVからは「おーろーかーもおーのよー」という歌詞の間延びしたリフレインが確かに流れており、歌っていた男性を素敵だとも思ったのでその後幾日も口ずさんだのだった。何故かポップスのオープニング・テーマが付くようになった「ひらけ!ポンキッキ」の、その楽曲の歌詞の気色悪さ(「お母さまを楽させたい」という実態のあまりに無い、保守の都合のみで描いたようなチンケな子ども目線のみならず「目からウロコがポロポロ」という生理的な嫌悪を催す箇所もあり、目も当てられない)に母が珍しく憤慨していた光景。しかしそれらよりも、いつどこで誰と見た歌番組かの記憶が全く抜けているのに、楽曲だけははっきりと、それも大層な名曲として覚えているというのはどこか夢見心地というかミステリアスな趣があり、40年近く頭に残り続けるその楽曲のリフレイン「あの頃に(あの頃に)戻りたい(戻りたい)」を、つい先日まで誰のどの楽曲か、特定できずにいたのだった。

 紗のかかった公開放送でどこか「エモい絵」として歌っていたのは確か男性、バンド…というところまでしか記憶は呼び戻ってはこない。80年代のヒット曲をあらかたチェックしているのだから可能性としては「それなりに売り出したがヒット曲の出なかったグループ」ということになり、アイリーン・フォーリーンかTHE東西南北か、はたまた135か…などとは思っていたが、これまで可能な限り調べてもその曲には突き当らなかった。できすぎた歌詞から偽記憶という可能性も一時疑ったのだが、ある日ふと前述の原則「チャンネルは日テレ」を思い出し、人気歌手以外の歌唱がある番組というと「スーパージョッキー」くらいしか無いことにも思い当たり、するするとSpotifyでの検索の手が伸びたのだった。「バンド」と思っていた男性の集団が「軍団」だったとは。結論がはっきり出るというのがいい事ばかりとは、ほんとうに限らないのだ。


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