(仮)トレンディ電子文 第29回:トレンディ期の高橋幸宏(1)
少々強引な枕だが、坂本龍一の「教授」と比し、高橋幸宏はミカバンドの「弟分」、YMOの「取りまとめ役」、PUPAの「委員長」、METAFIVEの「会長」…とその時々で立場を変化させている。長寿バンドのように同じ関係性を維持することと相反して、年相応に変化する(極めて社会人的に!)立場はもちろんブレでも何でもなく、まっとうな「協業」への拘りを最後まで持っていた一貫性の表れだと思うのだが、ではソロ活動が最も活発だったトレンディ期は協業としてどう捉えられるか…というのは様々解釈があるだろう。自分はこの時期を鈴木慶一との「盟友」関係に重きを置く。自身の作詞でもともと持っていたイノセンスにさえ近づくような妙なる悲しみのフェーズを、鈴木慶一は更にホーリーな視座へと押し進めた。そもそも初期トレンディ期には神経症(と、言うのが具体的に症状を指すのか、当時の文献からだと今ひとつ分からない部分があるのがもどかしい。一応緊張や手の震えなどが記されている)の再発というエピソードがあるのだが、ビート二クスのライブ中に鈴木にかけられた「幸宏、大丈夫?」の一声が、その再発のきっかけだったそうなのだ。ところで、最も神経症的イメージを打ち出していたかに思える80年代初頭は、その症状自体は鳴りを潜めていたらしい。「ニウロマンティック」というタイトル通りデカダン/美学的なものとして数々の作品に「ビョーキ」の甘やかさは刻まれているが、症状が自身に前景化する頃にはもうこのモードは薄くなっている。しかしビョーキは作品から消えてしまったかといえば事態はむしろ逆で「環境」として作品を取り巻くものに浸潤したような感じもある。80年代初頭に「形状」として顕れていたものが浸潤し「環境」へと(トレンディ期に)後景化するというのは、YMOにおいてあった①打ち込み音像②日本的湿り気からの(テクノポリス的なイメージでの)脱却というふたつの革新性が、その後の日本のポップス全般にもどこかしら行き渡り「普通化」した流れと軌を一にするとも言え、つまり高橋幸宏の歩み自体がプレ・トレンディ期→トレンディ期の世相変化そのものとも説明できそうだ。
一般的に「トレンディ」と捉えられそうな(つまり、日本的湿潤さで覆われていない生活を想起できそうな)楽曲が集まっているのは鈴木慶一との(ソロにおける)協業前、T.E.N.Tレーベル期(85-86年)の2枚である。「峠の我が家」と軌を一にする生活肯定感覚で溢れた矢野顕子作「仕事を終えた僕たちは」、加藤和彦をして「それだけで悲しみを分かる」と言わしめた自作の「今日の空」など、これらの穏やかなシティライフ的歌詞で突っ切っていっても彼は十分に「トレンディなモード」のアーティストとしてこの時期をくぐりぬけられただろう。高橋幸宏の歩みはそこから半歩先を行く。87年にビート二クスとして2枚目のアルバムを発表。YMO「BGM」直系のロマンが横溢した打ち込みアルバムだったファーストとは打って変わり、クリアーなバンドサウンドの中できちんと歌を聞かせる盤なのだが、眩しいLDKな生活感のある鈴木慶一の歌詞の中に「冷や汗」的というか、脱土着化した生活環境を無碍に肯定できないような視座がほんのりと顕れる。悲しみの中に生活の外側の「生き死に」が含まれ出したと言うか…続く88年の「Ego」でも軽やかな打ち込みポップス音像の中に拭いきれない重たさが忍び込む。小林武史、坂本龍一らの盤石なサポートによるウェルメイドなポップス盤となった89年のミカバンド再結成アルバム(発起人はトノバンだったがあまり制作に熱心でなく、ほとんど幸宏と小原礼の音頭により製作は進められたらしい)ではそうしたヘヴィネスの予兆を一度引っ込め、絢爛豪華さの中に倦怠感が横溢する「優雅な大御所」的なスタイルを取る。これがバブル期のモードとジャスト・フィットし、シングル・アルバム共にヒットをものにした。実はトレンディ期YMO関連作中一番のヒット作はこのアルバムなのである(枚数では「TECHNODON」に劣るが相対売上はミカバンドが遥かに上)。売上と臆することなく勝負するようなスタイル(それは90年代の"J印"の先駆けでもあるだろう)のポップスであることをきちんと貫き通しながらも、時代のライフスタイルを称揚するような消費のされ方からはほんのわずかずつズレ続ける。これら87-89年の3枚はそのまま次の3年のダイナミック・レンジとなっているかのようだ。
次の3年、春先に年1枚ずつリリースされた3枚は「大人の純愛三部作」と称される。ここでは本人のキャラクターまでもが作品の色合いの大きな要素として投入され、更に鈴木慶一とのビート二クス以来の「盟友」関係が、「トレンディ」と美しく距離を保ちつつ開花していく事になるのだ。
(つづく)