(仮)トレンディ電子文 第3回:トレンディ・ドラマ再見(1)
Wikipediaでは男女7人に始まりロンバケに至るとされていて驚いたがトレンディ・ドラマ、そうなのだろうか。もちろんこの定義が一般的なはずはないのだけど、だからと言って「正史」的なものがどこかで作られていたという記憶もない。トレンディ・ドラマという言葉が登場するのは何だかいつでも「~以降」「~あるある」など、そこで際立っていた特徴を歴史のかなたに置いていって超克しようという流れにおいてな気がする。良心的なドラマガイド本に「バブル期の"空虚さ"を象徴するような架空性」とも書かれていたのを見たが、それが架空なのかすらも後世のここ(2021年)からは正直曖昧に見えたりするものだ。88年にF1層として生きてみたかった。
ドラマと映画の違いとは。作品としての質や監督や演出、脚本のあり方の相違以前にまず、ドラマは週に1回、テレビで見る。ビデオだったり再放送だったりはあるけど、例えば「視聴率」という言葉で浮かび上がるその当時の「状態」は当然、リアルタイム・週1にのみ宿る。フォークロアというのとも違うけど、そうした「ある時期の3か月・週1」という規則正しさが「その時そのもの」と言う浸潤の仕方で時代にあると考えたとき、そこからは「作品自体の面白さ」とは違う趣を見出してみたいと自分は考える。もちろん今は88年ではないので想像するしかないのだが。坂元裕二の最新作(大豆田~)は舞台設定が「"トレンディ"を横目に入れたハイプ」なようなのだけれど、「企み」でちょっと満杯な作品ばかりな彼の事だからそこには「トレンディ・ドラマ」のグッド・バイブスを取り込み、ある種の気持ちよさを維持しようという狙いをしたたかに持っている...ように見える。その気持ちよさというのは「内容」とか「心情」の管轄外にある、過ぎてしまったら色褪せて見える「時代の適温」の生成された状態ようなもので、「クラシック」な普遍性(常温と言えようか)とは違う。適温と常温。過ぎ去った適温さを「若さ」と言い換えてしまっては考えたいことと少しズレる。「今」の優越性などという虚構を持ち出してその時にしかないものを「変化の中で打ち捨てられた事象」という観点で見たくはない。というか「今と違うあの頃」ではない「ジャストあの頃オンリー」として、毎週の当時性を見たい。今から。不可能なのだろうか?
トレンディ・ドラマをオンデ・マンドで見返してみて、仕事、人間関係、プロポーション、バルコニー、家賃…などのファンタスティックさよりも、それらが当時の最前線でトレンディしているということそれ自体の、ある種の生々しさのほうがより強く感じられてしまうというのは、そんな心構えがやはり理由なのだと思う。「今」の描写がトレンディ期(再度時期を書いておきますが、86年~92年くらいまでと思ってください)のハイな部分の「臨界点をなぞっている」故に、ピッタリ時代の外縁が余白(脚本や演者のタッパ?)のない状態で、ダイレクトに見ることが可能というか。ここで「トレンディ・ドラマ正史」を書く力量は自分には無い。が、前述の状態が見られる作品は…と逆算すると、なんとなくどこまでが「トレンディ・ドラマ」かは勝手に定義できる。88年に始まり90年に終わる、「抱きしめたい!」の影響から同心円的に広がった大多亮プロデュース作品の2年間。先の坂元裕二(89年の「同・級・生」含む)も北川悦吏子も別の時代に譲る。
で、 トレンディ・ドラマ直前の時代とは鎌田敏夫の時代である。「金妻」の篠ひろ子は新しかった、何かこう、ここまでの「女性」の物語から断絶し自活しているようなオーラがあったから…(作中ではいしだあゆみのほうが「手に職」役だったけど、例えば「その場所に女ありて」の司葉子っぽくもありどうも過去の女性映画的作品との"連続性"のほうを強く感じる)。そして「男女7人」の、当時開発途上にあったウォーターフロントをうまく活かした日本の風景からの浮遊感覚。隅田川沿いの風景を生かしたモチーフは当然ニューヨークのスタイリッシュなイメージを意識したものに違いなく、鎌田は間もなく「ホテルはリバーサイド」とオープニングで連呼する「ニューヨーク恋物語」でついに本家のマンハッタン/ブルックリンを舞台とする。この"水辺の浮上感"はずっと後年の「ロング・バケーション」にもどこか影響を与えている気がするし、途中94年の「29歳のクリスマス」(鎌田脚本・ロンバケの山口智子主演)を中継ぎに入れて一大潮流と見做すことも可能かもしれない。この二つの要素、「女性の物語とのちょっとした断絶」と「日本の風景からのちょっとした浮遊」。すごくざっくりと言い方になってしまうけど、トレンディ・ドラマの時代はここにの2つの「遠ざかる力」として準備されたように思えるのだがどうだろう。
(つづく)