(仮)トレンディ電子文 第22回:シティポップとあと何か
シティポップについての文献で今一番読みたいのは2019年ごろにWikipediaに書き込まれていた怪文書かもしれない。現在は恐らくTwitter上でのKotetsu Shoichiroさんのスクショでしか目にすることができないそれは、どういうわけか「ジャミロクワイ」の存在がとかく大きくフォーカスされ、「スペース感」「トリップ感」などを通じてシティポップ・ブームに彼らが重大な影響を及ぼしている…というような主張が堂々披歴されていて困惑したのだったが、恐らくシティポップ=今流行りの「Suchmos」に結びつくオシャレな何か、という、17~19年くらいにだけあった解釈(何かTVでそのような講釈があった?)がそこには反映されていて、近いとこだと例えばこのブログではそのSuchmosをロキノン(≒男子?)的ロックと相反するものとして、ブログの書き手自身の生の範疇外のものとして扱う(つまり「遠ざける」)ために「シティポップ」というタームを召喚している。このブログは今検索したから出てきただけで、たかだか4、5年前のそんな解釈ですら、自分は忘れてしまっているのだ。雑なシティポップ理解というものこそもしかしたら時代によって最も変わる部分で、ジャニーズの人気タレントがプラスティック・ラヴに秋波を送り、タツロー/ジャニーズの蜜月をバラエティ・ショー中ですら堅牢にしようとする2022年6月現在と10年代とでは、「シティポップ」という言葉の存在位置や恐らく想起される盤も異なると思うのだが、柴崎祐二さんの「シティポップとは何か」では第3章で「グッド・ミュージック」という言葉を巡って、その時代を含む「10年代以降」のことが懐かしくきちんと記されている。もちろん近過去のみならず、「リアルタイムと現在とでの微細な捉え方の違い」「はっぴいえんど史観を中心とした権威性の問題」「風景論から紐解く密かな政治性」…と、この本は「シティポップ」という言葉に付随するほとんどあらゆる何かを考える人それぞれのルートを一旦集約し、そして読んだ人に複眼的なお返しをするような「交通」本としてあまねく機能するようだ。
で、自分はどうだったかというと、自分は最終章の「ノスタルジー」に関する部分を、「トレンディの交歓」のヒントとして我が事に寄せながら楽しく読んだ。孫引きで恐縮だが、スヴェトラーナー・ボイムという作家によるとノスタルジア概念には国家的リバイバルの中核をなす「復旧的ノスタルジア」とは別に、異なる時間軸を想像し、象徴ではなくディテールを愛する「反省的ノスタルジア」というものがあるという。そして柴崎さんはコンバージェンス(多数のメディア、プラットフォームを双方向的に行き来する)文化であるシティポップの今のリスニングは、後者の「反省的ノスタルジア」が奥深くしみ込んでいると見ることが可能ではないかというのだ。ノスタルジアを媒介に、不確定なものに開かれ続けること。それは例えばディスク・ガイドすら常に書き換えていくという事でもあると思うが、サブスクのプレイリストというものは仕組みとしてそこにあまりに合致する気がする。そういえば日本のディスクガイドにいつも載るシティポップ楽曲(ピンク・シャドウ、君は天然色、頬に夜の灯etc)とYoutube~サブスク経由で注目された楽曲(街のドルフィン、Dress Dawn、黄昏のBay City etc)を同じプレイリストに入れると流れがやや噛み合わない感じとなり、後者の一群は最近の「a~haからのハリー・スタイルズ新譜」という流れに寧ろ近しいよう聴こえたりもする(それは前者の一群からでは関連を持てない気もするのだから面白い)。lightmellowbu的な90sモノの更なる不定形さを含め、シティポップという言葉が21世紀にこうも命脈を保てている理由はその解釈と単にリリース量の多さから「決定版」なプレイリストを未だ回避できているからなのかもしれない。
しかしその一方で、自分がトレンディを考えるときには原則として「過去はそれ自体において存続する(ベルクソン)」という事を考えるのだ。その、単にマイブームなだけで読んでいるベルクソンによると、現在の生成変化とは別に、過去は思い出したり取り出したりすること無しでも存在するものであるという。それは逆に言えば「現在」の特権化を(謙虚に?)回避するということで、つまり漸進的な生の継続がある限り「過去」はどこかの区切りで切断できるものではない。若干オカルトめいてるが音楽を「トレンディ」と思って聴くことは、自分にとって過去が「存続する」ことが分かる契機のような働きをするのだ。「反省的ノスタルジア」というタームとは少しズレるかもしれないがしかし、最終章に書かれたことを自分は励みとして読んだのだった。