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「大切な人を守る」の意味が変わってきた

「大切な人を守ろう」のタイトルに、
またか…と思ったら

SNSでの友人の投稿。タイトルに「大切な人を守りましょう」とある。
ああ、またか…うつさないようにうちましょうってやつね。と反射的に思ったけれど、読んでみたら真逆の内容だった。

3回目はほんとに危ないからやめるように大切な人に伝えてね、というものだった。
わたしは1回目から反対してたので、初めの方はことあるごとに、だめだよ、と伝えていたのだけれど、馬耳東風の反応ばかりで、啓蒙(?)に疲れて、意義を唱えることをやめてしまっていた。

だけど、この投稿をきっかけに、もういちど伝えてみようかと思った。
異端だと思われるリスクを、もういちどしょってみようと。

3回目はほんとにやばいらしい。
でも言っても聞かないと思い込んでた。

でも本当になにかあったら一生後悔する。
だから「3回目はやめてほしい」と母にはっきり言ってみた。

また「お姉ちゃん考えすぎでしょ」って言われるかな、と思ったけれど、母はわかってくれた。
セイフは国民の健康など考えてないよ、と伝えると、
「そうだね。もし国民の健康を考えているのなら、農薬まみれの野菜とか、おかしな食べ物が普及してないね」と。

「○さんが『3回目も早くうたんなんよ』って言ってたから普通にうとうと思ってた」と母は言ってた。
ほんとに、それほど根拠がない理由で行動しているのだった。
だけど「大丈夫なのかな、ってほんとはちょっと思ってた」と。

奥底の小さな声は「自分自身」

「○さんが言ってたから」「テレビが言ってたから」という流れに乗って動いてても、心の底で「ほんとに大丈夫なのかな」って小さな声が聞こえる。
その声は、多くの人の心の底にも、あるのではないかと思う。

1回目2回目が、思ったほど効いてないような、、と薄々でも感じているところに3回目の話がきて、なんかちょっときなくさいぞ、と。

母にわたしの願いが伝わったのも、母自身が、自分の声として今の流れのヤバさを感じていたからなのではないだろうか。

そういう危機感、違和感は、きっと誰もが子供の頃から感じていたものなんだと思う。特に、周りに合わせましょう、と教育された時に。
人に迷惑をかけてはいけません、人のためになることをしましょう、というそのココロは、自分を引っ込めろということだ。
違和感の正体は、このままでは自分が自分でなくなってしまう危機感、と言えると思う。

「人のため」と“いいことしてる風”の理由をつければ、個人の本心などお構いなしに、“上”は何でも思い通りにできてしまう。
そうやって、戦争で人を殺し合いに駆りたてることをしてきた過去がある。
「大切な人を守るために」と“上”が言ってくる時は、じつは危ないのだ。

「大切な人を守るために」声をあげる

大切な人を守るために被験者になる必要はない。大切な人を守るために戦争に行く必要はない。そんなことをしても何にもならない。そう思ってきたけれど、今は、そこからもう少し踏み込んで、叩かれる覚悟も持ちつつ、大切な人に関わっていく必要があるのかもしれない。
あきらめないで、言ってみる。
大切な人のためにできることは、戦地に行くことではなく、その人が戦地に行くのを止めること。
“上”の言うことばっかり聞いてたら、おかしなことになるぞ、と気づいた人が増えてきてる今なら、できるかもしれない。

自分のなかの小さな声を、少し外に出してあげる。
そうすることで、自分のなかの声に気づかない人が、それに気づくようになるかもしれない。



※ちなみに、3回目を考えてるひとは、ほんとに調べてからにしてね。
※接種開始以降の超過死亡数は、東日本大震災の時より多いです。
※超過死亡数で調べてみてね。


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