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泡沫のシルフィード


◆台本の使用について

現時点では金銭の発生の有無や上演場所等に関わらず使用許可は不要です。ストーリーやキャラクターに大幅な変更のない範囲でご自由にお楽しみください。
また、この台本はフィクションです。実際の出来事・団体とは無関係であること、自殺を推奨する意図はないことをご理解ください。
その他ご不明点などございましたら、コメントもしくはX(旧Twitter)アカウントへご連絡ください。

◆比率、時間について

男女 各1 約40分ほど

◆演出について

作中に登場人物名が「0」と記載されている部分がございます。こちらの台詞につきましては、演じられるお二方でお話し合いの上で配分を決めていただければと思い、このような表記を行っております。ぜひお好みの割り振りで演じてくださいますと幸いです。

◆登場人物

十和田 義洋(とわだ よしひろ)
小説家・脚本家。41歳。推理小説をメインジャンルとしているが、トリックの緻密さや奇抜さ以上に繊細な心情描写と情景描写に定評がある。

土井 翠(どい みどり)
女優。22歳。高校在学中から中規模の劇団に所属している。環境や与えられた役から影響を受けやすい。





翠(M):は、と見開く目が見える。落ちる涙が、息を飲む喉仏が、震える唇が、固く握られた両手が、舞台からはよく見える。

翠(M):A列7番目とC列4番目の人、泣いてくれてありがとう。E列18番目の人、身を乗り出して観てくれるのは嬉しいけど、あんまり前のめりになると後ろの人が困りますよ。その3つお隣、E列15番目の人、よく寝てますね、お仕事終わりですか?ちょっと悲しいから、次のシーンではもう少し声を張ろうかな。

十和田(M):暗転。彼女が袖へ帰ってくる。汗を拭いて、水を飲んで、舞台に向き直る。照明が入り、上手から出てきた俳優が、彼女の演じる役を探して彷徨い歩く。良い舞台だ。芝居も良い、演出も良い、劇場も良い。けれども私は、心の中で「結局は元の話がいいからだ」と付け足さずにはいられなかった。

十和田(M):室伏紫苑という稀代の作家がいた。もう長らく新しい作品を出していないが、今もなお彼女の新刊を望む声は多く、特に「煙る朝焼けを越えて」という小説には映画化やドラマ化の噂もある。

翠(M):土井翠という女優がいた、と、いつか誰かが語るだろう。私が目指すもの、手に入れたいスポットライト。初恋の忘れ形見に未練がましく縋り付いて、もう元の形すら見失ってしまった。

十和田:焦げついた憧れをどうしよう。

翠:なけなしの希望をどうしよう。

十和田:私は目を逸らしてはいけない。逸らしては、いけない。

翠:私は息をしなければならない。ひどくつめたい暗幕の水底で、息を吸って、もっと深く。

転換 スタジオ。演劇の稽古が行われている。

翠(M):誰の手も取らずに、ロマンスを踊る。愉しいことです。悲しいことです。あなたの刻むメトロノームが、目眩がするほど鋭く響いている。鏡合わせの私。どうすれば救われるのかわからない。

[手を叩く音]

十和田:一度止めます。全体的に疲れが出てきたようですね。15分ほど休憩にしましょうか。

翠:はい。

十和田:(声量を落として)さて。どうしましたか?土井さん。いつもと少し違うように見えましたが。

翠:大丈夫です、先生。

十和田:怪我や体調不良ではない?

翠:はい、違います。

十和田:そう。……悩んでいる……いや、焦っている?何かそういった類のものが、今日の演技に滲んで見えます。私には話せないようなことですか?

翠:いえ、……いえ。

十和田:それとも、ここでは話しにくいこと?

翠:……

十和田:……わかりました。ではこの後、そうですね、2幕の最後を少しだけ手直しして終わりにしますから、帰り支度が済んだら外で待っていてもらえますか?

翠:はい、先生。

転換。やや落ち着いた雰囲気の飲食店。

十和田:ここでなら話せそうですか?

翠:はい、……あの、どうしてわかったんですか?

十和田:今日のあなたは引き算の芝居が下手でした。気持ちが沈んでいる分を引っ張り上げようとしたのでしょうが、やや空回り気味でしたね。

翠:そう、ですか。

十和田:ああ、責めているわけではありません。座長に並ぶヒロインがこれではいけないと気を張っていたのでしょう?大丈夫、ちゃんと伝わっていますよ。

翠:……本当に、私でよかったんでしょうか。ずっと不安で仕方ないんです。ただ昔好きだった人と同じ景色が見たくて始めただけで、周りの人みたいな情熱とかなくて、それなのにこんな大役……何かの間違いなんじゃないかって、まだ思っています。きっと実力不足じゃないですか、ねえ、先生。

十和田:室伏紫苑作『ウンディーネの夜明け』……とても難しい話だと思います。静謐かつ複雑な心情描写、ある種現実から乖離した情景の描き方。作者が好む抽象的で美しい言葉たちは、映像作品として作る方が適切かもしれません。しかし、それをあえて舞台で演るから意味がある、価値があるんですよ。

翠:私にその価値が生み出せるのでしょうか。遠凪菁(とおなぎ すずな)、彼女ひとりのことさえ理解できていないのに。

十和田:理解しようと思えばできるような役者でしょう、あなたは。

翠:……私では、先生のご期待に添えないようです。彼女とは仲良くなれない。私には彼女を愛せない。心臓を分け合えない。本番までもう2ヶ月もないのに。

十和田:そう言い切るには早すぎるような気もしますが……どうしても分からなければ、この本を読むといいですよ。シナリオとして作品を理解するには、同じ作者の本を読むのが近道です。あなたの演じる役と共通項を持つキャラクターが必ず出てくるはずですから。

翠(M):そう言って先生から手渡された数冊の本を、花束のように抱きしめて帰ったのをよく覚えています。笑う顔、影、恋のこと、涙、愛の話。そのすべてにあの人の演技を当て嵌めて、なぞって、繰り返して、巻き戻して、やり直して、やがて忘れていく、どんな毒より人を殺す言葉の、喉を焼く甘さ。

転換。数週間後。

翠:ねえ、先生。遠凪菁って、にらめっこの時にどんな顔をすると思います?

十和田:にらめっこですか。面白い質問ですが、どうして突然そんなことを?

翠:だって、あんなに天真爛漫なんだもの。きっと先生の中では相当あどけなくて可愛らしい子に違いないと思ったんです。

十和田:それでにらめっこを?

翠:ええ、愛された子のにらめっこってどんなだろうと思って。

十和田:なるほど。そうですね……あなたが子どもの頃は、どんな表情で相手を笑わせていましたか?

翠:私ですか?こんなのとか……あとはこういう……

十和田:ははは!素晴らしい。鏡で見てごらんなさい。それが私の思う正解ですよ。

翠:やだ先生ったら、最初から好きにやればいいって言ってくださればいいのに!

十和田:すまない、あまりにも楽しそうだったからついね。幼い遠凪菁を描くなら、まさしく今のあなたのように無邪気だろうと思って。

翠:ふふふ、きっと前より良くなったでしょう?

十和田:そうですね、最初に声をかけた時よりはずっと自信に溢れている。

翠:ありがとうございます。でも、もっとあの子に近づけるはずなんです。先生、私のどこを直せばいいですか?

十和田:……強いて言うならば、そうですね。少女らしい明るさと空虚さが随所に見える役ではありますが、もう少し大人になっても良いのでは、と思います。ヒロインだからこその決断力というべきでしょうか。

翠:そう、ですよね。あどけなくはあるけれど、彼女は決して子どもではありませんものね。勉強になります。ありがとうございます。

十和田:軽く一礼して顔を上げたきみの、その眼。嗚呼、と思いました。

転換。数日後、スタジオ。

翠:先生、おはようございます。

十和田:おはよう、早いですね。

翠:ええ、明け方に目が覚めてしまって。コーヒーを淹れてきたんです、よろしければ先生もいかが?

十和田:ありがとう、いただきます。……ミルクは、入れないのですね。

翠:あら嫌だ、先生はカフェオレの方がお好みでしたか?私、今から買ってきましょうか。

十和田:ああいや、そういうわけではなく……ただ、きみに対してブラックコーヒーを好むイメージがなかったものだから。

翠:ふふ、もう大人ですから。 

転換。

翠:先生、私、車の免許を取るんです。合格したら助手席に乗っていただけませんか?

十和田:おや、いいんですか?

翠:ええ、もちろん!緊張するけど、なんだって目的があった方が努力できるんだもの。

転換。

翠:先生、今日はお酒もよく召し上がるのね。

十和田:はは、年甲斐もなく緊張しているらしくてね。しかし、そうだな、今日はこのくらいにしておこうか。

翠:いいえ、いいえ!せっかくですもの、もう少しいかが?私、先生が酔っていらっしゃるところも見てみたいわ。

十和田:参ったな……きみがそういうなら、もう少し、ね。

転換。

翠:先生、今日お話があった台本の変更点についてなんですが……

十和田:きみはきっと聞きに来るだろうと思っていましたよ。少し原作と展開を変えることになってね、特にこのラストシーンのあたり。

翠:ここの台詞、解釈に迷うところがあってご相談させていただきたいんです。

十和田:どうぞ。その辺りの加筆・修正は僕が担当しているから、いつでも声をかけてください。

翠:まあ、本当?新しい場面の遠凪の台詞、すごく好きなんです。先生の書かれた御本は全部読みましたけど、やっぱり素敵なお話を書かれるのね。

十和田:はは、ありがとう。

転換。

翠:先生、この頃お疲れではなくて?随分寝ていらっしゃらないようなお顔をされているわ。

十和田:いや、……はは、仕事のことでいろいろと考えなくてはいけなくてね。確かに少し疲れているかもしれない。

翠:ただでさえお忙しいんですもの、わたしのお喋りなんかにお付き合いいただかなくていいのよ。今日はゆっくりお休みになって。

十和田:……ああ、そうだね。でも私がこの仕事から離れたら、もうきみとこうして話す機会もないのだし……

翠:先生、小説家をおやめになるの?

十和田:ええ、まあ、なんと言うべきか……こんな歳になっていい大人が今さら何を、と思うかもしれませんが、潮時のような気もしているんです。

翠:これから、どうなさるんですか。

十和田:さて……どうしたものでしょうね。

翠:ねえ先生、やっぱり疲れていらっしゃるのよ。普段ならそんな向こう見ずな考えで今の仕事を手放そうとしたりなさらないはずだわ。お願いです、何か悩んでおられるのなら聞かせてください。私、少しでも先生にお返しがしたいの。

十和田:ああ、はは、そう、……SNS、というのは、素晴らしい文化ですね。いや全く、どうしたものか。

翠:SNS……何かトラブルでもあったんですか。私もあまり詳しくないけれど、何かお手伝いできるなら……

十和田:いえ、少し否定的な批評を目にしてしまっただけですよ。大したことではありません。

翠:まあ、先生の作品が悪く言われたの?とても信じられない、あんなに素敵なのに。どうしてそんなひどいことを言うのかしら。

十和田:世に出して僕の手を離れた以上、仕方のないことではありますが。消費者の意見を受け止めることも仕事のひとつ、分かってはいます。もう随分慣れたつもりでした。しかし……

翠:いいえ、どうかご無理なさらないで。一度担当の編集者様とお話して、ゆっくりお休みを取られた方がいいわ。

十和田:そう、ですね。それが一番だ。そのはずです、ええ、きっと。

翠(M):その日は、それでお開きになりました。家に帰って、ろくに使っていないアプリを開いて、先生のお名前を調べて。

翠:これ、

翠(M):駄作。と一行目に書かれた投稿。先生の最新作を「作者の憂さ晴らし、人間性に問題がある」「言い回しだけを取り繕っており中身がない」などと書き散らした文面に、賛同するコメントや訳の分からない絵文字ばかりが連なる。呆然とスクロールを続ければ、数名は『ウンディーネの夜明け』の上演にまで言及しているようだった。

十和田(M):こうして見ているうちにもコメント以外の反応が増えていく。目を逸らしたくなる。けれど拒んではならない、私が小説家であるゆえに。

翠:許していいの?許されていいの、こんなこと。こんなつまらない粗い言葉で、先生の言葉を汚すなんて。先生が遠回りな言い方をなさるのは、言葉をたくさん使った方が優しくなるからよ。そんなことも分かろうとしないで……!

翠(M):生まれて初めて持つ、小さく明確な敵意。問題を報告。嫌がらせ。侮辱行為。ひとつひとつ選んでいく間ずっと、ほんのり人を殺すような気持ちでした。私、人を殺すほど、この人のことを愛してしまったの。そう、もう、そんなにも。

十和田(M):ウイスキーを開ける。ただでさえ今日は彼女の前でそれなりに呑んでしまったのに、と自嘲する。眠るためだから仕方ない、だめだ、忘れよう。来週は稽古がなくて、締切がふたつ、それから、

翠(M):それから。

転換。喫茶店。

翠:先生、ねえ、先生。

翠:先生、わたし、劇団をやめようと思うんです。

十和田:そうですか。

翠:先生だって、小説家をお辞めになるんじゃないの?

十和田:ああ、もうやめましたよ。

翠:え?

十和田:辞めることを、やめました。

翠:どうして……目の下に隈ができるほど悩んで、よくお考えになって決断されたことじゃないの?

十和田:どうして、ですか。かわいらしい質問ですね。端的に言いましょう、お金のためです。……そんなもの、と思うでしょうね。そんなものです。生活に困らない程度に本が売れて、名前が少し広まって、友人は相変わらずいないけれど、この業界の知り合いも増えた。私には逃げ場がない。もうこの仕事で食べていくしかない。

翠:そんな、そんなのってないわ。先生、わたしたち、ひとりぼっちだからこそ自由なのよ。そうやって生きてきたでしょう、芸術のために。

十和田:自由、ああ、そうだね。私たちは自由だ、だからこそ不自由さの安寧の中に戻ることを許されない。自由であり続けたいならば、投げつけられる空き缶や石をこの身一つで見つめ続けなくてはならない。

翠:いいえ、私たち自由だから、目を逸らしたっていいの。自分を守るために旅に出たり引っ越したりしたとして、それに文句を言う権利のある人間なんて自分以外にいないでしょう?狭いアパートの部屋みたいな脳味噌に世間の方を向いた小窓がついているだけの、不自由な社会に住んでいるあの人たちとは違うのよ。

十和田:……きみは……ふふ、まったく、何を読んだらそんな言い回しが思いつくんだい。でも、そうか、私への批評を見たんだね。やはりあの時、口に出すべきではなかったな。きみの教育に悪い。

翠:まあ先生、私もうそんなことを言われる年じゃないわ。

十和田:私から見れば変わらないよ、遠凪菁も、きみも。実に愛らしい、守るべき少女だ。そんなきみに、演出家として私は訊かなくてはいけない。『ウンディーネの夜明け』という素晴らしいタイトルを借りてなお上演を批判され続けている作品だとしても、きみは舞台に立つことを望むかい?

翠:ええ、もちろん。人魚姫が陸の世界を選んだように、私は舞台を選びます。そうじゃなきゃ、せっかく先生に脚をもらったあの子が可哀想だわ。

十和田:意地悪な質問をしてすまない。そう返されるとわかりきっていて、でも、きみにも自由があるときみが思い込んでいるから、わざと足枷をつけるようなことをしました。

翠:どうして謝るの?私はいつだって自由だし、舞台に出ることだって私がやりたいから選んだだけよ、先生は何ひとつ足枷になんかなってないのに。

十和田:いいや、謝らせてほしい。きみに脚を与えてしまったのは僕だから。気づかないのかい?ガラスの靴はもう割れているんだ。だというのに、逃げるための尾鰭を、守るための鱗を、きみは捨ててしまった。足元をご覧、血だらけじゃないか。……かわいそうに。

翠(M):そのときの先生に、私は何も言えませんでした。先生は心底室伏紫苑の描く遠凪菁を愛していて、私なら遠凪菁を演じられると思ってくれて、いま、私があの子に見えているんだとわかってしまったから。脚本家がかわいそうだと言うなら、この役はかわいそうになってしまう。かわいそうになってしまった。もう取り返しがつきませんでした。

翠(M):それからのわたしは、ひどく先生に甘えました。先生がわたしのことを子どものように慈しみ、時には諭すように語りかけながら憐れんでいたから、私は私を演じる役者として、血を流す遠凪菁として、そのように振る舞いました。

翠:先生、怖い夢を見たの。いつもみたいにステージにいたら、客席から石を投げられて血が出たわ。……痛かった。誰も助けてくれなかった。

十和田:おや、それは怖かったね、かわいそうに。

翠:きっと庇うほどの価値がなかったのね。わたしは誰よりも舞台を愛していたけれど、舞台の神様は、わたしのことを愛してはくれなかった。演出家も、観客も、良い芝居だったと口にするばかりで決して愛してはくれない。

十和田:見世物とはそういうものです。僕たちは聞き分けなくてはいけない、神様の子どもとして。

翠:……そう。そうね、仕方ないわよね。役者なんてそれでいいの、お金と花束だけ受け取っていれば。わたしは先生を愛しているし、先生に愛してもらえるから十分なの。

十和田:そうか、愛されていると思っているのかい。きみ、ね、あまり勘違いをしてはいけないよ。きみのそれは錯覚だ。愛と名のつくようなものを僕はきみにあげられないし、きみは僕なんかを愛してはいけない。僕はこんなひどいことを言う人間なんだ。……わかってくれるね。

翠(M):困ったように先生は私に微笑みかけて、この優しさが愛でなければなんだというのかと、借り物の言葉でそう思いました。

十和田(M):このままではいけないとうっすら思いながら、それでも月日はめぐる。スタジオでの稽古が終わり、場当たり、止め通し、ゲネプロ、そして本番当日、開場時刻を少し過ぎた頃。楽屋の白い蛍光灯がきみの顔に影を落として、私は何も言えずにいました。

翠:先生、私、頑張りますね。……そんなに緊張なさらないで。大丈夫、わたしも、みんなも、やれます、ちゃんと。

十和田(M):開演。きみの言う通り、今日までのどの稽古よりも良い芝居が続いている。茫洋としたきみの視線を追って俳優の顔が歪む。それだ、その感情が見たかった、演出家席からずっと望んでいた。

翠(M):晴ればれと笑う。誰ひとり笑い返してはくれない。すこし焦る。もっと眩しく、幸せそうに、笑って、笑って!ねえ先生、いま、私、本当に遠凪菁の顔ができてますか?

十和田(M):ダンスシーン。いつもより僅かに強く手を引かれたきみがつまずいて、転ぶ、と思った時には遅かった。

翠(M):ぐらん、とよろめいた身体を咄嗟に支えられて、浮遊感に喉が締まる。底意地の悪い囁き声が空気を満たしている。頭が回らない、何か言わないと、室伏紫苑の言葉で。

十和田(M):長い睫毛を瞬かせてきみが笑う。つられて主演俳優も笑う、リカバーとしては悪くない。ああでも、怪我をしていないか改めて確認しなくては。

翠(M):幕間。遠凪菁に奪われていた心臓と肺を取り返す。衣装替えをして、メイクを直して、台本を開く。室伏紫苑の筆跡が見える。先生の声がする。遠凪菁が訴えている。「わたしは生きている。わたしのつづきを、はやく、もっと」と私の胸を殴りつける。そんなに急かさないでよ、まだ主演の彼にお礼も言えていないのに。

十和田(M):楽屋を回り、ひとりひとりに声をかける。お疲れ様、とても良かったよ。2幕もこの調子で。最後のひとり、きみに話しかけることを少し躊躇って、瞬間ふと横顔に見惚れる。ああ、この目に見つめられるのが私の言葉ならどれほど幸せなことだろう。

翠:ええ、先生。怪我はしていません。先生がいてくださるなら、このあともきっと大丈夫。だから見ていてくださいね。

翠(M):嘘をついた。先生の優しさに救われた、とは思うけれど、あの浮き足立った悪意の中で上手くいく保証はどこにもない。ああでも、お芝居が嘘ではいけませんものね。今のはほんとうです、うまくいきます、ええ、もちろん。

十和田(M):再開、そして終演、終わりに。板の上に全てが揃う。主演からアンサンブルに至るまでの全員、物語の結末、今日いちばんの眩しさ。すらりと長い主役の腕が伸びて、一礼。きみもまた、他の劇団員のようにそれに倣う。

翠(M):拍手は、鳴らなかった。凍えそうなほどの静寂。舞台上の全員が顔を上げられずにいると、気配でわかる。届かなかった。響かなかった。私たちが築いてきたものすべて、先生の愛した世界のなにひとつ、拍手がないなら無かったことになってしまう。笑わなきゃ、顔を上げて、光を浴びて、そうしたら今からでも何か変わる?

十和田(M):彼女ばかりを目で追って、私は見逃していた。赤いビロードの客席を埋め尽くす違和感。素知らぬ顔で品定めをしにきたのだ。

翠(M):沈黙。足音。聞き慣れた足音、すこし荒れていて、憤りの混じった勢いのまま私の目の前で止まる。

十和田:──みなさま、この度はご来場誠にありがとうございます。演出家として深く御礼を申し上げるとともに、この作品に携わる人間としてこれだけはお伝えせねばならないと思ったことをひとつふたつ聞いていただければと思います。

十和田:よろしいでしょうか。さて、まず、ここにお揃いの皆々様へお伺いしたい。本日の公演をどのような思いでご観劇くださいましたでしょうか。私ども制作陣、またここに並ぶ出演者たちは、会場に足を運んでくださる全ての方に楽しんでいただくことだけを使命に誠心誠意作品と向き合ってまいりました。時間と体力と予算を費やして、魂をすり減らして上演に辿り着いた先ほどまでの2時間半を、どのようにお過ごしでしたか?くだらないインターネット上の批評に思いを馳せながら、対して読み込んでもいない原作との矛盾を躍起になって探しながら、それはそれは上の空でご覧になっていたのではありませんか?そうでないのだとしたら、なぜこのような沈黙がここにあるのでしょうか。何も考えていないから、何もできないのでは?読み取ること、感じ取ること、それだけが観客の義務ではないのか?

十和田:……私が出てきた途端、皆様揃って帰り支度とは。逃げるのですね?その程度の感受性で彼ら彼女らの今日までの努力を、室伏紫苑の物語を、愚弄しないでいただきたい。あなた方に何がわかるというのでしょう。期待するだけ無駄だったのか。最大多数の幸福などという定規で我々を測らないでいただきたい。物語は自由だ。人生は自由だ。終演は観客には決められない。これは消費されるためのエンターテイメントではない。他の如何なる表現を用いても、最上の芸術は産まれない。音楽に、絵画に、スポーツに、何ができる?

翠:やめて、先生、もうやめて!私たちは大丈夫です、……大丈夫、ですから。

十和田:何が大丈夫なんですか。こんな屈辱を受けて黙っていられるほど僕は常識人じゃない。

翠:先生、そんなに怒らないで。

十和田:でも、

翠:いいのよ、役者なんてそれでいいの。演るだけで褒めてもらえる仕事じゃないって分かってるわ。それに私、今日、大事なところで躓いてしまったの、先生も見てらしたでしょう?私のせいです。

十和田:でも、きみは!!

翠:いいの。ねえ先生、ひどい顔よ。……芸術のために、全部を捨ててしまう必要なんてないのに。自分の血でせっかくの作品を汚すなんて、あなたが損をするだけよ。

十和田:いいや、それこそが芸術だよ。泣いて吐いて追い詰められながら作った作品に何を言われようと受け止める。自己犠牲。自信。自尊心。理解されては意味がない。凄惨な神々しさを精神と記憶から丁寧に抉り出すんだ。なら、この激情だって芸術だろう。ああまったく、狂っているね、表現を志す人間は。死ぬことさえ美しいエンターテイメントに昇華させなくてはならない。

十和田:簡単にできることじゃない、才能が要る。生まれつきのものでなくとも、言い訳が許されるうちにどれだけ才能を育めるか。才能を伸ばす才能があるか。僕には才能がないんだよ、今更どうしようもない、追いつけないんだ。

翠:先生だって本当にすてきなお話を書かれるじゃないの。たとえご自身に才能がないと思っていらっしゃったとしても、あなたは努力の人だわ。

十和田:努力は僕を守ってはくれない。凡人にとっての天才なんて、才能で出来た隕石のようなものだよ。一方的な情報の暴力。星を砕く力のない人間は、眩しさに灼かれながらなす術なく殺されるしかない。

十和田:表現とは光だ。痛いほどの光だ。ねえ、わかるかい、人間性なんて生温いものではないんだよ。

翠(M):ああ、たった今、この人はナイフを海に捨ててしまった。先生の目を見て、そう思いました。

十和田:きみには才能がある。きみの人生に演出家はいらない。星の輝きはスポットライトとは違うんだ。例え今、世界中がきみを否定したとしても、きみの輝きは必ず誰かの目を覚ます。

十和田:きみは光だよ。僕が翳らせるわけにはいかない。さよならだ、もう僕と会おうとしないでくれ。いいね。

翠(M):舞台は幕を下ろして、それから。それから、本当にもう、先生と会うことはありませんでした。あの日のことは映像も何も残らなかったので大した騒ぎにもならなくて、先生の作品を批判していた人たちだけはしばらく話題にしていたようだけれど、やがてみんな興味を失ってそれきり。そして今日、わたしは最後の舞台に立っている。

十和田:雲の遠い夜だ。君の骨が降り積もった砂漠に、夏は来ない。尖った影法師がやけに長く伸びている。鳴り止まないピアニッシモ。君は光を纏って顔を上げる。全てのものに等しく終焉は訪れる。死神は劇場に降り立ち、そうして。

翠:「愛を、ねえ、愛を、苦しまずに死ねないならそれがいいわ。恋もしないまま、いたいけな夢に追われてこんなところまで来てしまった。どうか憐れまないで、愛を、最後に飲む毒はそれにしてください」

十和田:あの日きみに飛び込んでいくはずだった花束をあなたに贈ろう。もう片方のガラスの靴を、貝殻に閉じ込めた歌声を、薄く煙る二階席からあなたに返そう。夕立のような万雷の、その微かなひとつとして。

翠(M):先生が亡くなったと知ったのは、その日の夜のことでした。

十和田:焦げついた憧れをどうしよう。なけなしの希望をどうしよう。僕はもう、きみの光の中では息が続かない。どうしようもないこの心を、一体どうしてくれようか。

十和田:どうもこうもない。もうだめだと悟ってしまった。きみが望むなら、これを愛としてしまえばよかった、あの時きみを肯定してあげられたらよかった。心からそう思います。けれど、それではいけない。価値のない言葉ではきみは踊らない。何より、言葉を切り売りしている身の上で、薄っぺらい安物をきみに宛てるわけにはいかないのです。

翠:焦げついた憧れをどうしよう。なけなしの希望をどうしよう。喜劇も悲劇も泡沫、もう誰もいない。先生も室伏紫苑も遠凪菁も舞台の神様も、届かない。

翠:愛じゃないなら恋だというの?今まで何に縋ってきたの?教えてください、あなたの言葉で。それができないなら置いて行ったりしないでほしかった。どうしてあの時救ったの?「救われた」って微笑みながら「救えなかった」と嘆きながら、何を思って、どうしてこんな、今さら手を離してしまったの。

十和田:愛してやりたい。愛してほしい。ねえ、きみ、僕が死んだら泣いてくれますか。泣いて、やがて忘れて、たくさん笑って、ふと思い出した時には、また泣いてくれますか。

翠:私、先生に、先生の物語に出会えてよかった。心からそう思います。あなたの言葉はいつも優しくて、それはあなた自身の優しさでもあった。優しい言葉を使おうという優しさ。やわらかな宝石のようで、ずっと身につけていると、ほのかに体温が移って心地よかった。花束もお金も沢山捨ててきたけれど、これだけは大切に取っておくつもりです。

十和田:しかし、私には痘痕を笑窪と書き違えるほどのことしかできません。欺瞞だ。恥ずかしい話です。仮にも作家を名乗っておきながら、この有様。なかなかどうしてあの人のようにはいかないものだ。ああ、いえ、あの人の話ばかりしていても仕方がありませんね。分かっているのです。そんなことは。劣等感だとか、何の題材にもならないようなつまらない感情が、けれども私にペンを握らせる。馬鹿馬鹿しくともやめられないでいるのです。

翠:上手と下手。好きと嫌い。美しいと醜い。善と悪。すべて、誰かの快か不快かの成れの果てです。そんなものに殴られて、私、さみしくはなかったのかな。いいえ、寂しいと思う自分を嘲っていた。

十和田:可哀想だ。無責任にもそう思いました。野良猫に餌を与えるように、君を可愛がってしまった。傷つけたかもしれない。

翠:怖がらないでほしかった。あなたに、あなたの優しさを信じてほしかった。それは確かに愛でした、先生、わかってほしかった。

十和田:ああどうして、私の死神はこんなにも愛に似ているのか。雲の遠い夜だ。君の骨が降り積もった砂漠に、夏は来ない。

翠:髪が風に攫われていく。アスファルトの海。どうか手をのべて、声も息も奪って、ここに永遠を生み落として。

十和田:尖った影法師がやけに長く伸びている。鳴り止まないピアニッシモ。

翠:はりつめた喉が震える。コンクリートの森は雨に濡れて、足元が覚束ない。遥か下の赤信号が嫌な色に滲む。でもこことあの夜は同じだってわかるから、私は恐れないから、あなたも怖がらないで、わかって、愛を、苦しまずに死ねないなら愛が欲しかった。ありふれた溺死じゃなくて、あなたに刺し殺されて死にたかった。

十和田:君は光を纏って顔を上げる。全てのものに等しく終焉は訪れる。死神は劇場に降り立ち、そうして。

0:最後には、白い鋼の三日月が、きっと二人の頸に降るのだ。


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