[2021版]セントエルモの落火
◆台本の使用について
現時点では金銭の発生の有無や上演場所等に関わらず使用許可は不要です。ストーリーやキャラクターに大幅な変更のない範囲でご自由にお楽しみください。
また、この台本はフィクションです。実際の事件等とは無関係であること、犯罪を助長する意図はないことをご理解ください。
その他ご不明点などございましたら、コメントもしくはTwitterアカウントへご連絡ください。
◆比率、時間について
男性1・女性1 30分ほど
◆登場人物
知幸(ともゆき)信者A、警察と兼役
深雪の双子の兄。17歳。妹思いで面倒見が良く、聡明。信者たちの思惑に気付き、彼らを嫌悪している。
深雪(みゆき)信者Bと兼役
知幸の双子の妹。17歳。純粋な性格で、兄を慕っている。環境のためかやや子どもっぽく、幼さの残る言動もみられる。
知幸:僕たちの話をしよう。無力な人間と、愛らしくて優しいかみさまの話。
知幸:僕には、妹がいる。ちいさくて柔らかくて脆(もろ)い、優しい優しい…わ、っと。
深雪:兄さん!
知幸:深雪。急に飛びついたら危ないだろう?おまえは全く、いつまでも子どもなんだから。それもかわいいところではあるけど、僕は心配だよ。
深雪:ふふ、ごめんなさい。そんなに心配しないで。兄さん以外にこんなことしないわ。ねえ、なんのお話をしていたの?わたしにも聞かせて。
知幸:ひとりごとだよ。恥ずかしいからだめ。
深雪:ねえ、おねがい。わたし、兄さんのお話を聞くのが好きよ。私にも何か話してほしいわ。
知幸:ふふ、なに?今日はずいぶん甘えただね。いいよ、それなら、あっちで一緒に本を読もうか。
深雪:嬉しい!何のご本?
知幸:何がいいかな…「変身」はこの間も読んだし、あとは……
深雪:またカフカなの?もう、兄さんってば、本当にその人の本が好きね。
0:二人の声が遠ざかっていく。
知幸(M):僕には、妹がいた。ちいさくて柔らかくて脆い、優しい優しい生き物。妹だけが僕の愛で、僕だけが妹の家族だった。
深雪(M):わたしには、兄がいた。双子の兄と、わたしたちに頭を下げるたくさんの大人と、白くて広い「やしろ」。それが世界の全てだった。
知幸(M):僕たちがここに来たのは、5歳の冬だった。両親に捨てられ、施設に預けられていた僕と妹を攫(さら)ったのは、いわゆるカルト宗教の信者たち。
知幸(M):彼らにとって、僕たち兄妹はカストルとポリュデウケス、二つのセントエルモの火。18になった次の日にどちらかを殺し、その命を贄(にえ)としてもう片方を神とするために生まれた、運命の双子。
深雪(M):大人たちは優しかった。わたしたちをまるで王子様とお姫様のように扱い、いつだって丁寧な話し方をした。外に出ることは許してくれなかったけれど、おもちゃやお菓子を欲しがれば、なんでも買い与えてくれた。
深雪(M):私たちは、顔立ちも体つきもそっくりで、声を聞かなければわからないほどよく似ていた。そう、見た目だけは本当によく似ていたけれど、兄は私よりもずっと賢い人だった。兄は、いつも買ってもらった本を読んでいて、難しい言葉をたくさん知っていた。大人たちが交わす会話の意味も、兄は理解しているようだった。
0:殺風景な白い部屋。本を読んでいる少年のそばで、少女が窓の外を眺めている。
知幸:『なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?』
深雪:なあに、兄さん。何か言った?あ、もしかして、また新しいご本を買ってもらったの?
知幸:うん、そう。カフカ。
深雪:兄さんは、その人の小説ばっかり読むのね。
知幸:だって、どれも面白いんだもの。深雪も読めばいいのに。
深雪:わたしはいいの。兄さんの読むご本は、どれもわたしには難しいわ。それに、物語の中身を兄さんがお話ししてくれるのが好きだから。
知幸:僕も深雪に話すのが好きだよ。
深雪:本当?嬉しい!ねえ兄さん、その新しいご本のお話をして。さっき、なんて言ったの?どういう意味の言葉?
知幸:うーん…ちょっと怖い話になるんだけど…
深雪:待って、待って、怖いのは嫌よ。また眠れなくなっちゃう。
知幸:わかったわかった。深雪が大人になったら話すことにするから。ああそう、それでね、さっき僕が読み上げたのは、この短編集に載っているあるお話の『なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?』という台詞なんだ。
深雪:カフカって人は、ずいぶんおかしなことを聞くのね。
知幸:そう思うかい?
深雪:だって、人間が血をいっぱい入れただけの大きな袋だったら、わたしは兄さんを抱きしめることができないし、兄さんに抱きしめてもらうこともできないわ。
知幸:なるほど、たしかにそうだね。それは困るな。
深雪:ふふ、でしょう?ね、兄さんは、どう思ったの。
知幸:僕?僕はね、……人間が、血のつまったただの袋だったら、かみさまは死んでしまうからだと思ったよ。
深雪:神様も、死ぬことがあるの?
知幸:かみさまも、人間だもの。
深雪:神様は神様でしょう?
知幸:……深雪は、優しいね。本当に、神様みたいに優しい。
深雪:やだ、兄さんったら。神様はね、優しいだけじゃなくて、とってもすごいのよ。いろんなことを知ってて、なんでもできちゃうの。神様は世界中を幸せにする人なんだって、みんなが言っていたもの。兄さんの方が、わたしよりもずっと神様みたいだわ。
知幸:そう、かな。そうだといいな。かみさまになったら、おまえのことをいつまでも守れそうだもの。
深雪:兄さんを守れるなら、わたしも神様になるわ。ねえ兄さん、神様になっても、わたしたちずっと一緒よ。
知幸:うん、僕たち、ふたりきりの家族だもの。
知幸(M):守られない約束だとわかっていた。どちらかがかみさまになるときに、どちらかは殺されてしまう。僕たちの18歳の誕生日が、近づいていた。
知幸:かみさまには、きっと妹は守れない。
0:場面転換。月日は流れ、2人は18歳の誕生日を迎える。
深雪(M):その日は、大人たちが朝から忙しそうにしていた。「誕生日おめでとう」と皆が口々に言い、新しい服や靴が「やしろ」に運ばれてくる。夕方になり、兄は、大人たちに呼ばれてどこかへ行ってしまった。明日は大事な用があるから、その準備をするのだそうだ。
深雪:ひとりで「やしろ」にいるのはひさしぶり。昔は広かったのに今はそうでもない、なんて思っていたけど、兄さんがいたからだったのね。……ひとりって、退屈。兄さん、まだ帰ってこないのかしら。
深雪(M):妹君、と部屋の外から声をかけられた。
信者A:支度ができましたので、お迎えにあがりました。兄君の方は既に準備を終えられています。今夜お休みになる部屋までご案内いたしますので、こちらへ。
深雪:今行きます。何か必要なものはある?
信者A:いいえ、いいえ、そのままで。着替えなどは後ほどお持ちしますから、ご心配なさらずに。
深雪:わかったわ。
信者A:さあ、参りましょう。
信者A:妹君、こちらです。
深雪:この辺りには初めて来るわ。外から見ると、どの場所になるのかしらね。
信者A:お部屋は地下になります。急な階段がありますから、足元にはご注意を。
深雪:ここには地下もあったのね。知らなかった。
信者A:さあ、さあ、こちらです。
深雪:ずいぶん、暗いところね。
信者A:こちらの牢の中へお進みください。
深雪:牢の中へ…?準備をするんじゃなかったの?兄さんもいないようだけれど。
信者:兄君はもうすぐいらっしゃいます、それまでここでお待ちください。
深雪:でも……
信者A:これも必要なことでございます。お進みください、さあ、さあ!!
深雪:……わかったわ。
信者A:それでは妹君、明日の朝に兄君のところへお連れいたします。今日の月が沈むまで、どうぞごゆっくりお休みください。
深雪(M):がちゃん、と、地下牢の重い扉が閉まった。
0:場面転換。壁一面に奇妙な絵や記号が描かれた部屋で、少年の前に別の信者が跪いている。
信者B:それでは、本日はこちらにてお休みくださいませ。
知幸:…社(やしろ)には、戻らないの?
信者B:はい、戻ってはなりませぬ。
知幸:どうして?
信者B:必要なことにございますれば。
知幸:なぜ、必要なの?僕と深雪を引き離してどうする?
信者B:何卒(なにとぞ)お許しください。我らが神、ポリュデウケスの火を灯すお方。
知幸:許す許さないの話ではないよ。僕は、深雪を僕から遠ざけてどうするつもりかと聞いているんだ。
信者B:ああなんと恐ろしき怒り……我らが神よ、どうか慈悲(じひ)を、どうかご容赦(ようしゃ)を…
知幸:その耳は飾りか?……(ため息)僕は、君たちの神様になったつもりはないのだけれど。
信者B:何をおっしゃるのです。儀式は明日の早朝。私どもにとって、もはや兄君は神も同然の身。
知幸:ふうん、そう。それで、僕は先ほどから「深雪をどうするつもりか」と聞いているのだけれど?……君は、己の信じる神に逆らうのか?
信者B:!…滅相もございません。我らは我らが神の望むままに。ですが、その問いは…
知幸:なに。言って。
信者B:先ほども申し上げたように、儀式は明朝(みょうちょう)に迫っております。あの贄(にえ)、カストルの火は既に牢の中におりましょう。
知幸:牢?深雪を、牢に閉じ込めたの?
信者B:これも儀式のためでございます。日が暮れてから月が沈むまで、神は口をきいてはなりませんし、贄(にえ)を光に当ててはならないのです。
知幸:日が暮れて僕が口をつぐみ、深雪は牢で眠り、月が沈んで、…それで、どうするの。
信者B:月が沈む瞬間、兄君は神と成られるのです。贄(にえ)の首に口づけ、ポリュデウケスとして名乗りを上げた、その瞬間に!
知幸:君たちは、僕を選んだ。……深雪を、殺すんだね?
信者B:…妹君は、人のまま天へお返しするのです。カストルは神であってはならないのです。
知幸:ッどうして!どうして、だって僕の妹は……いや、…質問を変えよう。なぜ、僕がポリュデウケスでなくてはならないの?本来の神話では、兄のカストルが人間なのではなかったかな。
信者B:それは、私どもの知り得ることではありません。すべては運命、星の巡り合わせでございます。兄君の頭上に金の星、妹君の頭上には銀の星。それだけのこと。
知幸:…そう。わかった。日暮れまでに言っておきたいことは、もう何もないよ。あとは君たちの好きにするといい。
信者B:失礼いたします。
0:信者が退室し、少年がひとり部屋に残される。表情のない顔を、夕陽が赤く照らしている。
知幸:『かみさまは、なんでもできる。かみさまは、世界中を幸せにする。』
知幸:深雪、あのね、僕はもうかみさまと同じなんだって。それなら、きっと星の色だって変えられるし、おまえのことも、幸せにできるはずだよね。
0:場面転換。深夜、月は空高く昇り、ひんやりと地上を照らす。その光の届かない地下牢で、少女が壁に寄りかかって眠っている。
知幸:深雪、みゆき。…眠っているだけ、だよね?ねえ、深雪。
深雪:(目を覚まして)…にいさん?
知幸:そう、僕だよ。おまえをかみさまにするために来たの。
深雪:神様…?ともくん、なんで……
知幸:ふふ、寝起きにしばらくぽやんとしている癖、昔から変わらないな。心配していたけれど、本当に寝ていただけみたいだね。
深雪:?うん、そう……(ふと気づいて)えっ、兄さん!?
知幸:しぃ、大きな声出さないの。大事な話があるんだ。
深雪:大事な、話?
知幸:そうだよ。ねえ深雪、おまえ、僕と入れ替わってくれないかい?先に言っておくけれど、これはね、おまえの兄からの最後のお願いだよ。
深雪:入れ替わる……最後の、お願い?
知幸:そう、さいご。
深雪:最後って、なんで、
知幸:こんな話を聞いたら、きっとおまえが怖がるだろうと思ったから、話したことがなかったけれどね。明日の朝、儀式が行われるだろう。そこで、僕か深雪のどちらかが、かみさまになるんだ。そのとき、もう片方は、ここには居られない。殺されてしまうんだ。
深雪:ころすって、そんな、わたし……
知幸:大人たちは、僕をかみさまに選んだみたいだけれど、僕はそれが嫌なんだ。
深雪:どうして、いやなの。
知幸:だって、僕よりも深雪のほうが、ずっと綺麗だから。かみさまみたいに綺麗で、ずっとずっと優しいから。
深雪:でもっ、でも、わたしが神様になったら。そしたら、兄さん、いなくなっちゃうんでしょう?嫌、いやよ、だったらっ!
知幸:静かにって、さっきも言っただろう。ほら、泣かないの。いい子だから、こっちへおいで。
深雪:だって、だって、
知幸:深雪。おまえは、この兄のお願いを聞いてくれないの?
深雪:……(ふるふると首を振る)
知幸:うん、いい子。さあ出ておいで、今、鍵を開けるからね。
深雪:鍵…なんで、持ってるの?
知幸:ふふ、内緒。僕はなんでも知ってるんだよ。もちろん、大人たちの秘密の隠し場所も。だって、おまえの兄だもの。
深雪:そう、そうね、兄さんは神様みたいにすごい人だわ。昔から、ずっと。
知幸:……ねえ深雪、この世で僕がいちばん怖いと思っていること、なんだと思う?
深雪:こわい、こと……わからないわ。兄さんは昔からなんでも知っていて、カフカの本も読めて…なんにも怖くないみたいだった。
知幸:そっか。僕は、…僕はね、深雪。おまえが不幸になることが、なによりも怖いんだ。カフカの小説よりも、死ぬことよりも、おまえがつらい目に遭(あ)って泣いてしまうことのほうが、ずうっと怖い。おまえが泣いていると、僕は困ってしまう。おまえが悲しんでいると、僕は苦しい。
深雪:…兄さんが苦しいのは、だめ。兄さんが苦しいと、私は泣きそうになるの。ずうっと前に、兄さんが風邪を引いたとき、覚えてるでしょう?あの時みたいに、怖くって眠れなくなっちゃうわ。ねえ、兄さんが苦しくなくなるために、私はどうしたらいい?
知幸:簡単だよ。これから、僕の代わりに西の塔のてっぺんの部屋へ行って、全部が終わるまで黙っているだけ。それだけでいい。
深雪:本当に、それだけ?
知幸:それだけ。大丈夫、黙っていれば、僕たちが入れ替わったなんて誰も気づかないよ。…本当に、難しいことは何にもないんだ。ただ、かみさまになるだけ。
深雪:神、さま…
知幸:そう。深雪は、かみさまになるんだよ。
知幸:かみさまになったら、深雪はずっと大切にしてもらえる。僕が死んだ後も、きっと、きっと幸せになれる。いろんな人を、幸せにできる。
深雪:わたしがかみさまになったら、兄さんは幸せ?
知幸:深雪が幸せなら、僕も幸せだよ。
深雪:兄さんは、かみさまになれないの?
知幸:かみさまは、ひとりで金色の星になるんだ。ふたりじゃ多すぎる。双子座の星たちだって、片方は人間なんだよ。双子のかみさまなんて、いてはいけない。だから僕はかみさまにはなれないよ。
深雪:どうして?兄さんとわたしは、いつも一緒じゃないと駄目なのに。
知幸:これからは、一緒じゃ駄目なんだよ。
深雪:なんで…なんでそんなひどいこと言うの?わたし、兄さんと一緒じゃなきゃ、すぐに泣いちゃうわ。わたしが怖がりなの、知ってるでしょう?
知幸:……意地悪な言い方をするね。知ってるよ。怖がりですぐ眠れなくなるのも、夜中に泣きそうなとき、寝ている僕を起こさないように血が出るほど唇を噛む癖があるのも、知ってる。でもね、もう、僕はその癖を叱ってあげられないよ。
深雪:なんで、どうして…?わたしはただ、兄さんとずっと一緒にいたいだけなのに…!!
0:沈黙。深雪が、ふと顔をあげる。
深雪:……そうだ、わたしがかみさまになったら、兄さんを生き返らせればいいのよ。生き返らせて、兄さんもかみさまにする。双子のかみさまがいたっていいことにするわ。だって、かみさまはなんでもできるんでしょう?
知幸:深雪は優しいね。本当の神様みたいだ。僕のことなんて、考えなくていいのに。幸せになって、いつか忘れてくれたら、……でも、そうだね。もし深雪が、僕のことをずっと憶(おぼ)えていてくれるなら、だけど。
深雪(M):兄は笑った。明日には死んでしまうなんて思わせないような、綺麗な綺麗な笑顔だった。冷えた鉄格子越しに指を絡めて、兄は静かに言葉を紡いだ。
知幸:深雪がかみさまになって、そして、いつか…いつか、僕がもう一度産まれてきたら。そのときは、おまえの兄のことを救ってくれる?
深雪(M):きぃ、と。やさしい音で、扉が閉まる。儀式が始まるまでのことは、もうすっかり忘れてしまった。きっと、おかしくなっていたのだと思う。もしかしたら、ずっと前からそうだったのかもしれないけれど。ただ、信じられなかった。明日の朝に、私の兄が死んでしまうだなんて。
深雪(M):わたしたちの話をしよう。信仰のために命さえ投げ捨てた狂信者と、人の命を喰らって生まれた神のなりそこないの話。
0:場面転換。夜明けの空に沈みかけの白い月が浮かび、断頭台に押さえつけられた少年の細い首が刎ねられようとしている、その瞬間。
深雪:ッ、待って、兄さん!!
0:信者たちは驚き、ほんの一瞬の躊躇いがあたりを満たす。
知幸:深雪、僕のいもう、と、
0:言葉を区切るように、すとんと刃が降りる。ざわめく信者たちの中、わずかに微笑んだままで、少年の頭が落ちた。
深雪:ぁ、
0:少女は、兄の首を抱きしめるように拾い上げる。
深雪:ッ、ごめ、ごめんなさい、兄さん。わたし、わたしが…わたし、かみさまに成ったのに、ぜんぜん、しあわせじゃなくてっ、わたしが泣いたら、にいさんは、もっと苦しいのに……わたし、わたしが殺したの、ごめんなさい、ごめんなさい…
深雪(M):そうして私は、唯一の兄さえ救えない無能な神となり、
警官:全員動くな!警察だ!児童誘拐及び監禁の罪で逮捕する!!
深雪(M):数ヶ月後に訪れた世界の終わりとともに、人間になった。私たちの社(やしろ)は、今はもう、無い。兄の声も、言葉も、鉄格子越しに触れた手の優しさも、ぜんぶ。全部、時間とともに遠ざかっていくだけの、ただの記憶へと変わりかけている。
知幸:『なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?』
深雪(M):なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか。なぜ、かみさまは救済を求められるのだろうか。なぜ、私の兄は死んだのだろうか。なぜ、ひとは忘れる生き物なのか。なぜ、私は生きているのか。
深雪:なぜ、人間はかみさまではないのだろうか?
知幸:深雪。
深雪:兄さん?
知幸:迎えに来たんだ、おまえが迷子になっていないか心配だったから。
深雪:もう、兄さんったら。私、いつまでも子どもじゃないのよ。
知幸:またそんなことを言って。僕が兄でおまえが妹なんだから、僕にとってはいつまでも子どもだよ。
深雪:私が、神様になるくらい、歳をとっても?
知幸:もちろん。ふたり揃って歳をとるんだもの、置いてけぼりになんてされてやらないよ。
深雪:心配性ね。
知幸:誰のせいだと思ってるの。
深雪:ふふ、ふふふ、兄さんはいつまでも私に優しいのね。本当に、神様みたい。
深雪(M):私の話をしよう。弱くて、愚かで、みにくい生き物。兄の命で購(あがな)われた、ただの人間の話。
知幸:僕の妹の話をしよう。ちいさくて柔らかくて脆い、優しい優しい生き物。僕のすべて、僕の唯一、僕の愛。僕の命を天へ掬いあげた、いとおしいかみさまの話。
深雪:わたしたちの話をしよう。運命に殺されたかみさまと、無力な人間の話。神様のてのひらからこぼれ落ちた、人間の子どもたちの話。