NTLive「アマデウス」からの金子光晴からの絵師さんやら物書きさんやらへの賛歌

SIXの翻訳に煮詰まってふとgmailの下書きを見たら、昔書いたNTLive「アマデウス」から連想した駄文が転がっていました。
恐らくツイッターに上げようとしていたと思われる140字前後のぶつぶつとした文章でしたが、まあ今頃長々と連投してもアレなのでここでお焚き上げしておきます。
私には珍しくですます調ですね(何も覚えていない)
半端ないって、とか今更な表現(?)があるのもご愛嬌(自分で言うな)

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NTLive「アマデウス」を観たあと、頭でヘビロテしていた金子光晴の詩の一節はこれでした。

いづれはみえすいた虚栄のさもしさで
わが名、わがしごとをかぎりなく生きのびさせる望ほど
過酷な誘惑はほかにはあるまい。
(『人間の悲劇』より[昔の賢明な皇帝は])

サリエリが「しごと」が無理であればせめて「名」だけでも生きのびさせようとあのような極限的所業に走るの、所詮は万事虚栄のさもしさだ、という或る意味東洋的(というと色々語弊あるけど)達観というか諦観に至ることができなかったからかもしれません。

しかしサリエリ、骨の髄までキリスト者であれば、神は人間との取引に応じる存在ではなく、ましてや義人の行いに義を以て応える「公平な」存在でもなく、人間の理解を越える高次の存在である、ということは良くご存知だと思うのですがね。
これはもう、旧約のヨブ記を百回読む刑に処されるべきですね。

こういうサリエリの因果応報的思考、寧ろ東洋的(だから語弊がある表現ではありますが、と再三申し上げておきます)な宗教観と親和的だなあと思った次第です。

とかいいつつ、私はサリエリ、本当に偉いと思うのです。
優れた批評家であるのに、いやそれが故に己の凡なるを重々承知しつつ(一般論ではなくサリエリ本人の評価的に)「凡庸な」作品を次々と生み出す。これほどの苦痛に満ちた、しかし賞賛すべき偉業があるでしょうか。

ここのところが「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうとも」しなかった山月記の李徴と違って偉いんですな(突然の凄まじい対比ですがまあお聞き流し下さい)
何であれクリエイトする(できる)人は兎に角クリエイトする、それが大事なんです。

現にサリエリの楽曲は昨今再評価する動きもでている訳で(またもや突然「史実」を呼び出すことご寛恕ください。まあ所詮呟きですので)、それにはもちろん色々な要因があるのですが、まずは一にも二にも残された楽曲があればこそなんですよね。

うっわー俺の作品凡庸だわ死にてえ、とひとりごちつつそれでも敢えて作品を生み出し続ける、その行為は苦痛ではありましょうが、その「いま、ここでの」貴方の自己評価は決して絶対的なものではないのです。

同時代の優れた才能を目の当たりにして絶望し、絶望しつつもそれでも歯を食いしばって作品を生み出す。己の中の表現者が己の中の批評家に食い殺されそうになりつつもふんばって作品を生み出す。
サリエリさん、半端ないって。そんなんできひんやん、普通。

だから世の絵師さん物書きさん、その他作品を生み出せる人はどんどん生み出していきましょう。
サリエリは自嘲して凡人の神を自称しましたが、凡人もたゆまずクリエイトすべし、という範を示したという点に於いて彼は確かに凡人の神だったのかもしれません。

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