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haruka nakamuraのスティルライフⅡを聴いて思い出すこと

五つ上の姉はピアノを弾く人だった。リビングには電子ピアノがあり、よく姉が課題曲を練習する音が響いていた。そして僕はピアノがあまり好きではなかった。

僕が幼稚園から小学校低学年くらいの頃、姉のコンクールがある度にどこだか分からない遠くのホールへ連れて行かれたことを覚えている。恐らく別の市だったのだろうが、車でも結構時間がかかる上に知らない子供のピアノを聞かされてひどく退屈だった僕は、いつも途中で会場を抜け出した。大抵、同じように退屈している子供と仲良くなり、入り口の噴水に入ったり自販機の下の小銭を探したりして遊びんだ。コンクールの記憶はなぜかいつも曇り空だ。母によるとコンサートの帰りには必ず鰻を買って帰ったそうなのだけれど、そんな良い部分は全く覚えておらず、ただただ退屈だった事と、即席の友達との微妙な距離感や高揚感だけが記憶に残っている。

そんなこともあり、幼い僕にとってピアノは姉と退屈感を連想させるものだった。

僕が中高校生くらいになった頃、リビングにあったピアノは姉の部屋に移ることになる。当時僕は反抗期だったので正確な理由は知らないけど、多分姉しかピアノを弾かなかったことと、姉の部屋が広かったことから移設が決まったのだろう。姉と僕の部屋は同じ2階にある。しかし、当時姉は高校・大学生活に忙しくしていたため僕と生活リズムがずれており余計にその音を聴く機会はほとんどなかった。

ある天気の良い日に姉がピアノを弾いたことがあった。姉の部屋の入り口はドアではなくアコーディオンカーテンだったので、ピアノの音は2階中に漏れ聞こえてくる。何を思ったのかはもう思い出せないけれど、その時僕は自室のドアを少し開けた。姉が弾いていたのはいつかのコンクールの課題曲、久石譲のsummerだった。ドアを開けたのは、ただ聞き覚えがあったからかもしれない。それでも僕はこれまで書いたような記憶や思いを、姉のピアノの音と共に思い出した。こんな文章を書いていて失礼だけれど、その時の感覚をうまく伝えることができない。強いて文字にするなら、良し・悪しではない、寂しさ、悲しさ、過去の不変性に対するどうしようもなさ、やるせなさのようなものなのだろうが、それも正確ではない気がする。ただ、僕はこの少し前(おそらく姉がピアノを弾かなくなってからだ)、姉のピアノに興味を示さなかった可愛くない弟であることをなんとなく後ろめたく思っていた。

それから僕は、姉がピアノを弾き始めるといつもばれないようにこっそり部屋のドアを少しだけ開けるようになった。しかしそれは楽しい思い出ではなく、エモエピソードでもない。

当時姉が弾いた曲を聴くと、どうしても先ほど書いたような思いを抱かずにいられない。だからよっぽどの事がないと聴かない。さっきsummerのリンクを貼るためにYoutubeで検索した時にもすぐ再生停止したくらいだ。それでも僕は姉が弾くピアノに思い入れがあったことに、haruka nakamuraのスティルライフⅡを聴いた時に気がついた。このアルバムはおそらくエアー撮りといわれる、ピアノの近くにマイクを立てて録音する方法を採っている(違ったら恥ずかしい)。その場合、人が生で演奏するときの楽器以外の音、例えば鍵盤に爪が当たる音や、ペダルを踏む音、唐突な音の切れや息遣いのようなものまで録音される。そのリアリティは、生活、僕の場合は記憶に溶け込んでいた音を思い起こさせるのに十分な力があった。

先日式を挙げ、今では遠く離れてしまった姉が、僕の隣の部屋でピアノを弾くことはもうない。夫と暮らす新しい家は二人の幸福に向かっていくための船であり余計な荷物は積めない。狭いらしいし。それでもいつか、彼女がふとした時に弾けるようにその生活のどこかにピアノがあれば良い。

なんて思っていたら後日、義理の兄がピアノを練習していることを知った。姉の方が歴は長いが、すっかり抜かれてしまったらしい。どこかのコンサートホールでピアノを引く兄の姿を見て、なんだか柄にもなく本当に嬉しくなってしまった。姉がこの人と出会えてよかった。その生活にピアノがあり、多分昔とも違う関わり方をしているだろう。どうか二人が幸せに生きてほしい。