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108歩の先にあったのは、光

 SixTONESを知る以前の京本大我さんの印象といえば、歌がうまくて、美人で、家庭環境に恵まれていて、音楽の才能があって、ミュージカルをやるひと、だった。もちろん名前はずっと知っていたし、SixTONESに詳しくなる前から顔と名前が一致するタイプのアイドルでもあったので、エリザベートに出演していると聞いて「すごいねー」なんて言っていたし、歌番組でセンターに立ち高音パートを歌いあげる姿をみて「すごいねー」なんても言っていた。こうして振り返ると、どうやら私のなかに、京本大我はすごいひとだ、という意識はずっとあったらしい。
 けれど、京本大我の芝居というものについてはSixTONESを好きになるまでほとんど触れる機会はなかった、はずだ。だから、彼の演技に関しては、正直なところ印象らしい印象もなかったようにおもう。

 最初に京本大我の演技に触れたのは『ハマる男と蹴りたい女』で、そこから何作かのドラマ鑑賞を経て、2024年6月末、『言えない秘密』を観た。薄曇りで時折雨のぱらつく有楽町の映画館の、いちばん大きなスクリーンだった。午前の回にもかかわらず席は八割くらい埋まっていたと思う。たくさんのひとたちの期待が、泡のように空中をふわふわと漂っている感じがして、なぜだか私までドキドキしながら予告をみつめた。まずは、映画が無事に封切されたこと、本当におめでとうございます。

 さて、早速だけれど、京本大我の演じるすがたを観るたびに、不思議な芝居をする人だな、と思う。言葉を選ばずにいうなら、大我さんの映像における俳優としてのセットポジションはいわゆる万人にわかりやすいかたちの”技巧派”ではない、とおもう。多分。『お迎え渋谷くん』『言えない秘密』のプロモーション期の雑誌はできるかぎり読んだけれど、本人のインタビューでも特別技術的なアプローチについて深く語るような切り口のものは多くはなく(アイドル自認のある人たちは総じてこの傾向が強いが)、心構えや作品への向き合い方、大我さんの努力の軌跡に触れるようなものが印象的だった。私自身もそういう視点で語られる大我さんの芝居のはなしが好きだな、と思って読んでいた。※このnoteを書くにあたりインタビューを読み返したら、+actではかなり演技論を言葉にしてくれていて興味深かった。大我さんの芝居の根底にある信頼と謙虚さと献身に触れて胸がぎゅっとなった。
 だからといって、こんなことはわざわざ書くまでもないことなんだけれど、大我さんの演技が下手ということは決してない。大前提、京本大我って、努力と、研究と、トライアンドエラーを繰り返した先の確かな技術がその身になじんでいるひとだ。そもそも、これだけ群雄割拠の二十代後半から三十代の俳優枠で、演技ができない人間に映画の主演は回ってこない。
 そして、束の間の一花を経て、私は確かに京本大我というひとの演技に、いま、もう、めちゃくちゃ夢中になっている。一日の何割かの時間を京本大我の演技について考えてしまうくらいには。もう一度映画館に行こうかなとおもうくらいには。それって、私にとってはものすごく特別なことなんだけど、今のところ、私は大我さんの演技の魅力をうまくひとに伝える言葉をもたない。誰かとこの感覚を分かち合えないこと、それが少しだけさみしい。まだ自分のなかでもうまくまとまりきらない感覚が流れていってしまうような気がして、待ってよ、とそれを追いかけてつかまえようとしている。だから多分、こうして回りくどいnoteを書いて、少しでも湊人のことや、物語のこと、大我さんの表情や息遣いや、そういう頭のなかに浮かんできたもののことを文字にして残しておこうとしてるんだろう。

 前置きが信じられないくらい長くなったけれど、いまから、そういうはなしを書こうとおもう。映画の感想が半分、大我さんのはなしを半分くらい。

留学先での経験からトラウマを抱え、音楽大学に復 学しながらもピアノと距離をおこうとしていた湊人 は、取り壊しが決まった旧講義棟から聴こえてきた ピアノの音色に引き寄せられるように雪乃と出会 う。ミステリアスな雰囲気を持つ彼女に湊人は惹か れ、次第に2人は心を通わせていく。授業をさぼっ て海を見に行き、連弾し、クリスマスを共に過ご し…お互いにかけがえのない時間を過ごしていたは ずだったが、湊人の前から雪乃は姿を消してしまう

『言えない秘密』公式サイトより

※以下、『言えない秘密』の物語の核心部分のネタバレ(台湾版を含む)があるのでご留意ください。

 『言えない秘密』は、いわゆるタイムトラベルもので、テイストとしては『時をかける少女』や『君の名は。』のようなジャンルに分類される、はず。このタイムトラベルの部分が、あらすじでいうところの”雪乃の秘密”に相当するのだけれど、なんとこの秘密、本予告ではヒロインの雪乃が他人に認識されていないという部分まで明かされてしまっている。人気作のリメイク作品なので、秘密の内容自体を”ネタバレ”として回避させる意思が製作側にないのは、それはそうだよね、と思いつつ、私は本予告を観るまで台湾版を観ていなかったので、本予告のなかで棚橋と広瀬に「雪乃って誰だよ」って言われてるシーンをみて(ああ~~~~!そういうパターンの秘密ね〜〜〜!?)ってかなり本質のネタバレを喰らってしまった(それで諦めて台湾版を観てから日本版を観た…)。
 ちなみに本予告を観る前の私の秘密の予想は「重い病気を抱えていて余命がいくばくもない」か「実はもう死んでいて幽霊」か「過去からのタイムトラベラー」だったので、ほぼあたっていたといっても過言ではないし、まあそう思うと台湾版が公開された時とは違い、割と王道の設定になりつつある令和では隠しきるほどのトリッキーな秘密でもない。これらのことからもわかるように、物語自体はとてもシンプルで、良い意味で観客をひとつも裏切らない作りになっている。おだやかで、ていねいで、やさしい御伽噺であることが全編を通して伝わってくるような作品だと思う。

 湊人が海外留学から帰ってくるところから始まる物語は、湊人の通う音大の校舎とその周辺という限られたシチュエーションのなかで展開していく。ロケーションとしての画替わりが多くないかわりに、雪乃と湊人がすごした一年の四季のうつろいがうつくしく描かれていて、わたしはまずそれがとっても好きだった。全編を通して常に視覚的なうつくしさを意識して作られた映画で、観ているだけで可愛くて美しいものを好きな気持ちが満たされてゆく。旧校舎の古いピアノも、緑にあふれた中庭のベンチも、毎日変わる雪乃の洋服も、湊人と雪乃が並んだ時のシルエットも(本当にほんとうにうつくしかった)全部が素敵で、台湾版の爽やかさやうつくしさをひとつも損なっていなかった。むしろ、ファンタジーとの融和という意味では、ミステリ的なニュアンスを残す台湾版よりも日本版のほうがよりファンタジックなつくりこみが意識されているかもしれない。どのシーンも、絵みたいにきれいだった。ただ、画面の美しさを重視した結果なのか時々「それは現実の流れとして無理がない!?」っていうシーンもあって、そこだけはちょっと気になってしまい…(河合監督の他の作品でも思ったので単純に私との相性の問題だと思う)特にクリスマスパーティの片付けの中途半端なホールでふたりきりの場面はあからさまに「この絵が撮りたい」というサービスカットの意識を感じてしまってもったいなかったなあ。
 本題に戻って、そういう視覚的な説得力の要素として作りこまれた美術・ロケーションに、あまりにも大我さんと古川琴音さんのビジュアルがその世界に溶け込んでいて、まさにキャスティングの妙技だ!とスタンディングオベーションで拍手を送りたくなる。私にとってこの作品にのめり込むための要は、現実にはありえないタイムトラベルというファンタジー要素を現実の世界とどれだけつなぎ目なしに融合させるかだと思っていて、しかも、それは別にファンタジー要素に現実的な説得力を持たせてほしい(合理性のあるSFにしろ)というはなしではない。そうではなくて、”この世界ならタイムトラベルという不思議なことが起きてもおかしくない”と思わせてくれるかどうか、みたいなことが私がその世界に入り込むという意味ではとても大切で、この映画ではその説得力を、うつくしく丁寧に作りこまれた美術と共に、京本大我・古川琴音という俳優が担っていた。彼らの纏う空気のやわらかさや、彼らの醸す代替不可の不思議さみたいなものが、この物語にとても良い方向で作用していた。ふたりが連弾で並んだ時の手の大きさの違い、重なって離れる指さき、ベンチに並んで座ったときの身長差、古川琴音さんの「……秘密」というときのいたずらめいてミステリアスな仕草のひとつまで、すべてがノスタルジックな空気のなかで際立ってうつくしく、毎シーン息をのむくらいにきらきらしていた。

 おはなしとしては、全体がとてもすっきりまとまっていて、監督や解説でもいわれている通り、台湾版と比較してかなり”わかりやすい”作品になっているとおもった。このわかりやすさについては台湾版との比較が有効だと思うので、いくつか台湾版と比較しながら書いていこうと思う(気になる方は楽天TVのレンタルで観れますし、観る時間ないけど台湾版との違いが気になるよ〜という場合は有名作なので探せば解説込みのネタバレあらすじもあります)
 台湾版では観客に解釈をゆだねたエンディングも、日本版では明確にこれまでに何が起こっているのか、今どのような状況なのかが整理されることで、台湾版にあった解釈の余地やSF的難解さはずいぶんと薄まっている……というか、日本版にはエンディングの解釈の余地はほとんどない。雪乃の境遇も、台湾版では信じていた教師や友人、果ては母親にまで精神異常者扱いされて追い詰められていく部分が日本版ではごっそり削られていて、あくまでも雪乃と湊人の恋愛から観客の視線がぶれないように意識して作り変えられていたのがかなり特徴的だった。そういう意味では湊人のトラウマの原因についても、トラウマがあるという設定を提示する以上のことは特に描かれず物語の軸があくまで純愛要素に絞り込まれているのも(個人的には物足りなさもあったし、ちょっとバックグラウンドとしての描きこみ不足も感じないではなかったけど)この作品を日本でリメイクする意義として必要なことだったのかもしれない。

 ちなみに、私個人の好き嫌いでいえば、そもそもヒロインが病気で死ぬの物語は、それだけでどうしても身構えてしまう。死という不可逆を背負わされたヒロインが自己犠牲精神を発揮して誰かを聖母的に救う物語は、そういった物語を悪びれもなく女性性に押し付け消費し続けてきた社会を思い出して憂鬱になるし、そもそも死ってあまりにも不可逆で、当たり前に悲しいから、それをうつくしいものとして描くことへ抗いたい気持ちが多分ずっとある。物語のなかで人が死ぬこと自体は別に何とも思わないし、人がたくさん死ぬ映画も大好きなのに。だから、多少強引さや不可解さというざらつきが残ったとしても、台湾版のラスト(シャンルンは解体工事の迫る中ピアノを早く弾きすぎたことで20年よりももっと過去に”帰って"しまい、シャオユーが死ぬ以前に行くことができたため、ふたりは20年前の世界で生きたという解釈)はかなり好き。ハッピーエンドが好きというより、死なずとも、不可逆の悲しみで彩らずとも、うつくしく心を打つ恋愛映画はあるということが好きなんだとおもう。なので、日本版は、わかりやすくて入り込みやすく、死というものによって雪乃と湊人の選択が「これしかない」状態になるという物語の”上手さ”に充分に満たされつつ、この令和の時代にリメイクするからこそ雪乃に死を絡めないルートも観てみたかった気持ちがちょっとだけある。だって、湊人のこれからの長い人生を想像する時、自分をトラウマから救ってくれたひとが自分の腕のなかで息を引き取ったことって、やっぱり彼らの恋を彩るために用意するには、あんまり苦しすぎるようにおもってしまう。

 ただ、それでもラストシーン、ポラロイドに映った自分と雪乃を観た湊人がひと粒の涙をこぼし、エンドロールでの「ここに帰ってきて」という歌詞が湊人の独白に”なった”。この流れがエンディングとしてあまりにもぐっときて、すべてに意味があって、それがとてもうつくしく、エンドロールを目でおいかけながら思わず涙がこぼれそうになってしまった。この歌をSixTONESが歌っていること、ここに湊人の声が乗っていることにこんなにも意味を感じられるのは、あのラストシーンで湊人が声を発さず、ポラロイドに涙をこぼして終わったから。ここに帰ってきて、という湊人の、もう雪乃に届くことのない切実な祈りの始まりが「初めて出会った日のこと覚えてる」なの、もう、ほんとうにずるいくらいに心臓が引き絞られて息もできない。
 幸福のはじまりを思い出しながらぼんやりとエンドロールを眺めるひとときは映画のなかでもいっとう大好きな時間だから、それを噛み締めさせてくれる結末に、わたしはすっかり、どうしようもなく満たされてしまった。SixTONESの『ここに帰ってきて』はエンドロールに流れた瞬間、Secret(雪乃が20年後にやってくるために弾いている曲)と並んで遜色のない、この映画のための曲になった。

 ここまで、雪乃の死という結末についてふたつの角度で触れながら、けれど、じゃあこの物語が悲しみのカタルシス映画であるかといえばそういうことではないとも思う。物語のあとくちは、決して悲劇の余韻だけではなかった。それはこの物語がタイムトラベルというファンタジックな装置を軸にした御伽噺であり、根本的に雪乃の死は”過去のできごと”であり、そもそも未来の湊人に過去の事実を変える運命はなかったというこれまた”うまい”作りになっているせいもあるんだけれど、私がこの物語に感じたのは、描かれている死ではなくて、悲しみを抱きしめながらもエンドロールに流れる「ちゃんと前を向いて生きてるよ」という”生きる”ことの光だった(鍵括弧部分はSixTONES『ここに帰ってきて』のワンフレーズ)。結末からたどるのであれば、明るく楽しいばかりの物語ではないはずなのに、ずっとやわらかな光のなかにあるような心地があった。この光のなかに大我さんの存在があるような気がしてしまうのは、京本大我というひとがいつだって生命のうつくしさにあふれているひとだと知っているからだろうか。

 大我さんには、大我さんの演技には、その場にいるだけで一枚の絵を完成させてしまうような圧倒的なパワーと、観客の視線をどうしようもなく惹きつけてしまう光がある。細かな表現のひとつずつの所作や呼吸の好みももちろん大切だけれど、私にとっての大我さんの一番の魅力は、彼がいるだけで画面のなかに色や光がつよく滲むような、そういう彼にしか醸しえない空気なのかもしれない、というのが『言えない秘密』をみて、大我さんの演技についていちばん最初に感じたことだった。

 京本大我という人には生命のうつくしさがある。ともすれば人形のような造形美が冷たさやつくりものめいた印象を与えてしまうように思うのに、彼をうつくしいと感じるとき、彼のまわりにはきらきらとしたひかりの粒子が舞っている。内面からあふれる、生きる力、みたいなものが大我さんのくしゃっと笑う表情や、声のトーンや、視線や、いろんなあらゆるところからあふれ出ていて、そういう瞬間の大我さんはあんまりうつくしいから私はいつも驚いてしまう。
 作中でも、湊人という役を通じて大我さんの持つ光は画面の内外にちりばめられていて、それがこの作品の彩度や明度をぐっとあげているように感じられた。台湾版と比較して、日本版で最も「リメイクした意味がある」部分はこの”生きることへの光”なんじゃないかとすら思う。もちろん、ヒロインの古川琴音さんのみずみずしさや、脚本、美術、あらゆるものが集まってもたらされた結果であることは間違いようもないのだけれど、そこに確かに、京本大我というひとの持つうつくしさがあると思うし、それに気づけたことが私はとても嬉しかった。だって、たくさんのアイドルがいて、たくさんの俳優がいて、日々いろんな作品を消費しているなかで、立ち止まってこうしてnoteを書きたくなるような演技をみつけることができるって、それって、とんでもなく幸運で幸福なことだから。

 もう少し大我さんの演技について具体的なことも書いておこうかな(今読み返して、あまりにも抽象的で笑っちゃったよ)
 今回、湊人は21歳の大学生という設定の役で、大我さんの近年の作品内の類似のシチュエーションに『束の間の一花』の萬木先生がいる。大学という場所、ヒロインの秘密、やや浮世離れした青年像。スタイリングもそれほどかけ離れてはおらず、見た目での差別化は難しいであろう役を並べ、どう演じ分けるんだろう、と大我さんの湊人を心待ちにしていたわけだけれど、観終わったあと、一度も萬木先生を彷彿とさせる瞬間はなかったことに気がついた。まあ、役を演じ分けるなんてことは俳優として当たり前といわれたらそうなのかもしれないけれど、私が束の間の一花を観たのが割と直近だったこともあって、一度くらいは「お、デジャヴだな」という瞬間があるのかもなあ、と思っていたから、良い意味ですごくおどろいたんだよね。あの映像のなかで京本大我は確かに音大生の樋口湊人だった。それも、ごく自然で、決定的な示唆があるというわけでもないのに、最初から最後まで樋口湊人は留学から帰ってきて、不思議な存在の雪乃に恋をした音大生の樋口湊人だった。
 束の間の一花を観ているときも思ったけれど、大我さんの演技って与えられたキャラクターに自分を寄せにいくというより、自分のなかにあるそのキャラクターと共通する部分を”ひらく”ような感じがある。演技のことを専門的に知っているわけではないから感覚の話として読んでもらえると嬉しいんだけれど、その大我さんがひらいた部分にキャラクターが寄り添って、大我さんのなかに溶けていくような感じ。今回の湊人でいえば、雪乃とのかけあいのシーンは特にそれが強く出ていたと思う。普段のアイドル京本大我が見せる仕草や声色、口調への既視感はあるのに、画面のなかでそれがただしく"樋口湊人"のものになっていて、物語のなかでは語られない、もっと普通の、冗談も言えばスマホも持っていて、文句もある、トラウマを抱えた留学帰りの音大生という属性だけでは語り切れない、ただのふつうの大学生の湊人も確かに存在するのだというファンタジーのなかの”現実”としてもうまく作用していてすごく良かった。物語を鑑賞しているなかの心地よく息の抜ける瞬間、ふふっと微笑んでしまうような時間が、大我さんのあのアドリブのようにも受け取れる雪乃とのかけあいにあったのも、すごくすごく良かった。あの瞬間を観るためにもう一度映画を観ても良いかも、とおもうくらい。このnoteを書くにあたり雑誌のインタビューを読み返したら、河合監督から「役を纏いすぎないで」という話をされたこと、河合監督の「当て書きではないのに結果として当て書きのようになった」という言葉に、"ふつう"の湊人が偶然の産物ではなく、計算され、大我さんの持つ魅力によって引き出されたものだと知ることができた。特に好きなのは、自転車に初めて二人乗りする場面、海、それから喫茶店での連弾。
 あと、流れのなかで書くところがほかにないのでここに書くのだけど、ピアノバトルの時の湊人の、まだ心を開ききっていない、ピアノへの愛憎が混とんとしたままピアノを操るすがたの迫力とうつくしさが脳裏に焼き付いて離れないんですが…!?雪乃があとから台詞のなかで「迷いや悩みも全部音に出てるところが好き」というようなことを言っていたけれど、たとえこの台詞がなかったとしても、そういう風に解釈することができるくらい、大我さんの表情がそういう湊人の感情の濁流を表現していて、圧倒されてしまった。割と全編通して恋愛をしている瞬間のナチュラルな湊人が描かれているからこそ、あのピアノバトルの湊人はちょっと特別な感じがする……。

 ここまでつらつらと書いておいて、結局京本大我さんについて、彼の演技の魅力について、あまりうまく言葉にすることができなかったような気がする。もっといろんなことを思ったはずなのに、ひとつずつに単語を与えて文章にするとそのたびにあの瞬間に感じたはずの、まあたらしく、とくべつで、他の誰を観た時とも違ったはずの感覚が、既成の何かに置き換わってしまうような感じがする。それは私が演技に対してのことばを持たないからだし、京本大我さんのことをまだまだ知らないからなんだけど、やっぱり冒頭に戻って”誰かとこの感覚を分かち合えないこと、それが少しだけさみしい”。それでも、私が映画を観て感じたことのほんの欠片でも、この信じられないくらいに長いnoteを読んでくれた誰かに伝わっていたら、それより嬉しいことはない。

 『言えない秘密』という御伽噺のなかに生きる、京本大我の紡いだ樋口湊人を観ることができた幸運を噛み締める。私は、わたしという人間をよく知っているから、SixTONESを知らなかったらきっとこの作品に出会うことはなかった。だからこそ、こうして出会えたことを嬉しく思うし、こういう出会いをもたらしてくれるアイドルのことをまた好きになる。素敵な時間をありがとう。来年も、その次も、俳優京本大我にどうか出会うことができますように。

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