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『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』 (6)【最終回】 スライス・オブ・ライフ / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 1970年代の半ば。時代はフィルムからビデオへ。
 大阪から戻った私は、単発の仕事でなんとか糊口を凌いでいました。そんな時、ビデオ撮影のアシストで何度かお世話になったSR社で「社員にならないか」と言うお誘いがありました。赤坂見附にあったその会社は三菱自動車やゼロックスなど大手のクライアントをかかえ、オートスライド(※1)の制作などを行っていましたが、徐々にビデオに切り換えてゆく、という話でした。

 制作業務は社員教育やイベント、製品プロモーション、記録映像など雑多でした。
 スライド(スチル)や映画フィルム、ビデオ、などの様々なメディアの仕事だったので、自分の知らない分野の仕事は興味津々でしたが、写真は動画の制作規模からみると、どこかちょっと低くみていたかもしれません。そんな私でも印象的だったのはイベント用マルチ・スライドの制作、上映でした。コダックの映写機30~40台をコンピュータで制御して巨大な写真を立体的な音響に合わせて動画のように動かしていきます。いま流行りのプロジェクション・マッピングはこのマルチ・スライドから発展したものです。残念ながら今は亡きSR社ですが、この分野に特化していれば今ごろ脚光を浴びていたかもしれません。

 当時ソニー・Uマチック(4分の3インチ)のカセット・ビデオテープを米・CBSがニュース電子取材システム(ENG)に採用して実用化していました。日本でもTVの取材や番組を始め、様々な映像制作が「ENG」で行われ大きく様変わりしてゆきます。
 画と音を同期したまま低コストで長時間録画ができる。
 今では当たり前のことですが「ENG」は『映像制作の革命』だったのです。

 新入社員になった私はジャンルに関わらず制作・技術の仕事はなんでもやりました。ディレクターは社員が基本でしたが、忙しい時はフリーのシナリオライター、演出、撮影スタッフの方々が出入りしていました。小さな仕事であれば私も演出をさせてもらえました。
 年に数本ですが、まだフィルムの仕事もありました。
 そこでは劇場用(映画館)CM、展示会用映像などで35ミリ・アリフレックスやミッチェルの撮影助手を務めました。ミッチェルはレジストレーションピンがあり、安定した映像が撮れるので、合成などがある場合の選択肢でした。ところがミッチェルはカメラと三脚ヘッドを合わせた重量が40kg。しっかり足を踏ん張って運ばないと転倒するおそれがあります。さすがにこれは体力的にアメリカ人用だと思いました。

 初めての海外ロケも35ミリの撮影でした。フィリピンのサンタロサ島。リゾートの紹介フィルムです。
 『近代映協』の杉田安久利さんというベテランのおじいちゃんがカメラマンでした。初めての空撮も体験しました。
 あ、恐ろしいエピソードがひとつ。
 ヤシの林のなかに宿泊用のコテージがありました。そこでダークバッグに手を突っ込んでフィルムチェンジを行っていたのですが、ある時フィルムチェンジに戻ると床の上のダークバッグがなんだか嫌~な感じ。
「あれ?動いた!?」
 ダークバッグをバサバサ振ると、なんと、手のひらサイズのヤシガニがゴロンと現れました。
「ぎゃぁ~!」
 ご存知の方はお分かりになると思いますが、ヤシガニの握力?は半端ないのですよ。危うく指を切り取られるところでした。あ~今思い出しても恐ろしい。
 16ミリの撮影も需要がありました。学校紹介映画などの記録用で、こちらは予算の都合で社員が撮影します。通常はキャノン・スクーピックでしたが、このカメラは8ミリカメラと同じような感覚で使えました。
 
 ある時ファッションショーの16ミリ撮影の依頼があり、予算の都合で私が回すことになりました。迷わずアリフレックスを選びました。
「たぶんこの機会が最後かも・・・」
 今、番組でADさんたちがサブのカメラを平気で回していますが、撮影はそんなに簡単なものじゃない、ましてシネカメラは素人には回せない、という映画人の矜持がありました。
 アリフレックス・STにアンジェニュー10倍ズームレンズをチョイス。レンズは明るさがf2.2なのですが舞台照明下で露出を計るとASA100で絞り開放。絞り開放ということはピンが浅いのです。ワンマンオペレートなのでピン送りは自分でやらなくてはならないのですが、しかしピン送りはぼかす恐れがあるので却下。結局モデルが手前でポーズを決める所に置きピンしてここでアップを拾います。決めポーズ前後のウオーキングのところで音楽に合わせてズームバックしてフルショットを狙えば被写界深度でピントをカバーしてくれます。そしていざ本番。カメラのパタパタという小気味良い駆動音。ファインダーをのぞくと映像もロータリーシャッターでパラパラ動いて「映画を撮ってるぞ」、という実感。
 後日、横浜シネマの試写室でラッシュでした。そおっと潜り込んでドキドキしながらチェックしていると、横シネの営業さんが「よく撮れてますね」の一言。ちょっと嬉しかったな。これがアリフレックスとの最後の仕事でした。

 SR社ではデザイナーやスチルカメラマン、音効さん、もちろん映画のフリースタッフなど分野の違う様々な方々と仕事ができたことは幸せでした。
 そういえば井上さんという地味なシナリオライターが出入りしていて後に岡嶋二人(※2)という名前で作家デビューしたのは驚きました。
 SR社の役員にナレーターの城達也さんがいて、私の結婚式のスライドのナレーションを『ジェットストリーム』風に担当してもらった有難い想い出もあります。

 ところが5年もたつとそのルーティンに「これで良いのだろうか」という思いがまたじわじわと湧いてきます。
 社員ディレクターは仕事柄、経費(飲み代)をバンバン使っているのに・・・不公平だ。(*当時は日本の経済が右肩上がりの時代でした)
 色々思う事があって出入りのフリーのスタッフを頼って退社します。
 その後、紆余曲折あってフリーランスで演出に。
 幼い頃描いた漫画が絵コンテで役に立ちました。
 音楽が好きだったので、音楽関係の仕事もいろいろやりました。
 そして、結婚して家庭をもって人並みの生活を送ることができました。

 よく「自分の好きな仕事をやりたいがそういう仕事がない」と嘆く若者の声を聞きます。
 しかし「自分の好きな仕事」が果たして自分に合っているのか。
 「好きな仕事」が本当は傍で見るより大変で、実は「好きな仕事」じゃなかったりします。
 私のつたない経験から言えるのは「近道はない」ということでした。
 もし第1希望でなくても「自分の好きな仕事」に近い仕事を探してみる。「何でもやってみる」ことも大切です。その中でひょっとして「本当に好きになれる仕事」や「人生を変えてくれる人」との出会いがあるかもしれません。

 「スライス・オブ・ライフ」という表現手法があります。映画はまさにこれで、人生の1場面を切り取りながら、それを構成して人の一生を2時間で見せてしまいます。
 今回そんなことを考えながら私の半生(?)を「スライス・オブ・ライフ」で振り返ってみました。
 え!「半生」じゃなくて「反省」だろ?

 お後がよろしいようで・・・。  
                                 完 

(※1)ソニーの前身企業である東京通信工業が昭和20年代に開発した、テープレコーダーとスライド写真を組み合わせた映写機。正式名称はAutomatic Slide Projectorと言う。もともと学校教育用の機材として開発された。

(※2)井上泉と徳山諄一のコンビによるペンネーム。名前の由来はニール・サイモンの戯曲「おかしな二人」。1982年にデビュー作となる『焦茶色のパステル』で第28回江戸川乱歩賞受賞。『チョコレートゲーム』(第39回日本推理作家協会賞長編賞受賞)、『99%の誘拐』(第10回吉川英治文学新人賞受賞)ほか、著作多数。

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【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。

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