King Gnu -「やり過ぎ」の美学 -
久しぶりにKing Gnuのライブを見た。現地ではなく画面上ではあるが。
昨年の秋から冬にかけて行われたKing Gnuのワンマンライブ、そのツアーファイナルが今回映像化され、配信された。
(まだ見てないよ!という人は是非見てほしい!期限があるはずなのでお早めに!)
結論、やっぱりカッコよかった。
勿論配信なので後で修正等入ってる可能性はあるが、コロナ禍で満足にライブが出来ない中でも、King Gnuは確実にパワーアップしていた。画面越しに「うっま、この人たち…」と何度も呟いてしまった。
圧巻だったのは、中盤の「Slumberland」〜「Tokyo-Rendez-Vous」だ。もうとんでもない量の音が頭を支配してきた。何か作業をしながら聴くことを許さない、正に音の濁流だった。
彼らのライブを見ていると、聴き心地が良く丁度良い塩梅の演奏を知っていながら、更に音を重ねているように思える。彼らは自覚的に「やり過ぎ」な演奏をしているのだ。そしてその「やり過ぎ」な演奏こそ、King Gnuの魅力であり、カッコよさの一つなのだろう。
現代の音楽では音を重ねまくるスタイルはどちらかというと忌避されているイメージがある。邦楽、洋楽問わずトラック数が少ない曲が流行の中心にあるし、chill musicというジャンルもマイナーではなくなりつつある。落ち着いて、深淵な曲調が支持される中、King Gnuのライブスタイルはそれと逆行している。それこそ「泡」みたいな曲があれほど激しい演奏になるのはGnuくらいじゃないか。
彼らは爆音に爆音の意味があると言わんばかりの演奏をする。過剰であることは過剰であることの意味があり、過不足ないものとは違う魅力を持つのだと。
何も音楽に限った話ではない、「やり過ぎ」、余分、過剰… そういった性質のものが持つ独自の魅力を、King Gnuのライブは思い出させてくれた。