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5月1日 語彙の日

 パシャリと傘が地に落ち、彼はそこにいた。

 泣きながら走り去る女性を追うことも、落ちた傘を拾い上げることもせず、ただその場で立ち尽くしていた。

 まるで雨を感じるように。


「片時雨だ」

 私はそう呟き、ぼんやりと空を眺めていた。

 ここは時雨に雨が降り、遠いあの空は鮮やかに晴れていた。

 彼は依田理市という。

「驟雨だっただろう」

 気づくとそこに彼がいた。濡れた髪からぽたりと滴が垂れるので、私はハンカチで彼の髪を拭う。

「片時雨だよ」

 私が言うと、彼は何か思い出すような顔をしてから、そうかと一言口にした。

「彼女、泣いていたじゃない」

「そうだねぇ」

「追いかけもしないで」

「そうだねぇ」

 隣に座った彼がのんびりとした声で返事をし、私の髪に触れる。

「通り雨だったんだよ」

 いたずらにそんな風に言う彼を、私は憎めないでいるのだった。

「理市は一度ちゃんと誰かを好きになった方がいいよ」

 私はまるでそれを誰かに言われたようにして、そのまま伝え、彼は笑った。外を見ると、雨はもう止んでいた。


 少しして、荷物をまとめて私は立ち上がる。彼も、それにつられるようにして立ち上がった。

 カフェを出ると、糸のような細かな雨が降っている。彼はやっぱり空を見上げて手をかざし、雨を感じる。

「細雨だね」

 彼が言い、私は言い換える。

「糸雨だわ」

 再び空を見上げて、彼はそうかと言った。

 彼の、雨に触れる姿が昔から好きだった。

 雨に触れてその雨を吸収するようにとけ込むのだ。その姿がきれいで、私は好きだった。雨が好きなのか、彼が好きなのか私にも分からないでいるので、私はいつも雨を見る。

「小糠雨かもね」

 彼が言い、私は少しだけ笑う。

「どれも同じじゃない」

「俺は雨が好きな奈々が好きなんだろうな」

 彼も少し笑い、やっぱり雨に濡れる。その雨の音で、そんな言葉など溶けて流れてしまえばいいのに、私の耳にはちゃんと入ってしまうのだった。好きなんだろうな、などとはっきりとしない彼はいつもずるいのだ。そして私は、雨だけが好きなわけではない。

「あ、止んだ」

 かざした手のひらに、雨が触れなくなった。降っては止み、止んでは降りを繰り返す。

「やっぱり驟雨だ」

 どこか得意げに言い、彼は持っていた自分のハンカチで髪や手を拭く。私は手に握るタオルを鞄にしまい、歩き出す。

 雨が好きで、彼が好きで、雨の呼び名や種類をたくさん覚えた。その語彙が増えるたび、雨を知るたび、彼を知れたようで嬉しかった。きれいな雨を知り、きれいな言葉を覚えると、私の世界は広がって見えるのだ。

 ここは時雨に雨が降り、遠いあの空は鮮やかに晴れていた。

「やっぱり片時雨だったんだよ」

 ふぅん、と今度はつまらなそうに言うと、ゆっくりと歩き出す。

「奈々、おいで」

 彼が私を呼ぶ。後ろから彼を追い、私は祈る。

 目の前の彼に、私雨が降りますよう、私はいつも祈っている。

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【今日の記念日】

5月1日 語彙の日

参考書や辞書の出版を通して、学ぶ楽しさを伝える株式会社旺文社が制定。日常生活や学習活動、仕事で書いたり読んだり聞いたりする言葉を的確に理解するために必要な「語彙」の大切さを認識してもらうのが目的。日付は5と1で「語彙(ごい)」と読む語呂合わせから。


記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
https://www.kinenbi.gr.jp の許可を得て使用しています。

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