7月2日 真ん中の日
私の半分には、父の血が流れ、もう半分には母の血が流れている。父と母の真ん中には、私と弟と妹。
私と妹の真ん中には弟があり、もしこれが私と妹、あるいは私と弟だけ、弟と妹だけであったなら、真ん中には何もないのだ。
でも二人であれば半分には出来る。
真ん中と半分は同じようでいて違う。
私は毎日3時に起きる。昼間ではない。夜中と朝の間だ。10時に就寝し、8時に出発する、その真ん中の3時に私は起床するのだ。
起きて、布団の中でまどろむ。夜なのか朝なのか、分からないなぁなどと目を開けたり閉じたりして、まどろみを楽しむ。
トーストの半分にバターを塗り、半分にチーズをのせて焼く。その真ん中を食べて味が混ざるのが好き。日が昇り、夜の名残と混ざるのが好き。そうして朝の私だけの自由な時間、半分は読書をし、半分は執筆をする。読むものと書くものの真ん中にいる。
7時になると娘を起こす。寝ぼけ眼の10歳児は大人と子供の真ん中である。夫も起きてきて、二人の朝食を用意する。
日が昇ったはずなのに、外は雨が降る。
雨が嫌ねと、半分嘘を言う。私は雨も好き。長靴を履いた娘が嬉しそうに外に出た。ぴょんこぴょんこと飛び跳ねるさまはうさぎのようでもありカエルのようでもあって、その真ん中である。可愛い。
跳ねる無邪気な可愛さがあるのに、天を仰ぐその視線は大人のそれである。子供と大人の間。多分、私も夫も、そこにはもう戻ることもたどり着くことも出来ない場所。
私はどうだろうと考えてみる。間もなく40歳である。80歳を寿命とすればそれは半分の年であるが、さてどうだろう。人生100年時代と言われるのなら、私は真ん中に向かう途中となる。 まだ、折り返してもいない。
真ん中に着いたら、どんな場所が待つのだろう。それは楽しいのか、悲しいのか、素敵なのか、最低なのか。そうして真ん中の年になったなら、こんどはどこが私の真ん中になるだろう。75歳?
そんなふうに日々を重ねると、私の真ん中だけでなく、夫にも真ん中があり(特に夫は同い年である)、娘にも真ん中があるのだと気づく。
それぞれはどんな真ん中を目指しているのだろう。真ん中はあくまで過程だが、必ず通る場所だ。目指す先が幸せで、それを支えてあげられる私でいたい。
そのためには、毎日を大切に生きる必要があるのだ。丁寧に、大切に。そうで無くては、日々は無駄に過ぎていく。1日1日がなくなっていき、あっという間に真ん中の年にでも到達し、自分は一体何をしてきたのだろうと振り返ったときに愕然としないように、丁寧に生きる。
「行ってきます!」
長靴を履いた娘は、ランドセルを背負い、少しの肌寒さからカーディガンを羽織り、キラキラと笑って言った。
笑った顔は私に似ているそうだ。
そして出掛ける際に服のヨレや乱れ、帽子による髪の毛の乱れなどに対するチェックが細かい点は、夫に似ているらしい。
娘は、私と夫の真ん中にいて、私と夫の半分ずつの血が流れている。
それは尊い命。
それを大切に守るように、私は生きる。
それを大切に守るように、今年の後半も前を向いて生きるのだ。そう、決意を改める。
真ん中は、幸せの場所。
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【今日の記念日】
7月2日 真ん中の日
神奈川県横浜市で食品や化粧品の販売、食文化の提案やイベント企画などを手がけるアッカープランニングが制定。1年365日のちょうど真ん中の日を「半分」「シェア」「折り返し」「真ん中」などをキーワードに、みんなで笑顔でお祝いするのが目的。日付は1月1日からも12月31日からも数えて183日目の真ん中になるので7月2日に。
記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
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