(NEW)喫茶『彼』①【連続短編小説】
☆本日より新連載(全9回)スタートです。
隔月新連載企画はこれがラストです。
どうぞ最後までお付き合いのほど、
よろしくお願いします。
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「(ゆず香る)」
「ウスバカゲロウ」
は?
私の目線には、おいしそうなハンバーグが描かれたポスターが貼られ、そこには確かに『ゆず香る和風おろしハンバーグ』とある。ゆずが香るのは和風おろしハンバーグだ。だからこそ、私は頭の中で読み上げたのであって、間違っても、ウスバカゲロウが香るわけではない。
とは言え、人間の耳と脳みそとは不思議なもので(私のそれだけだろうか)、言われれば、視線は声の主を探すより先にそれを探しに行くのである。ああ、視力が良くて良かった。そうして、ハンバーグからちらとわずかにスライドさせたその先にはそれこそ確かにいたのである。
「ウスバカゲロウ」
私は静かに口にした。
店内はガラリ閑散としているものの、そうは言っても飲食店である。虫の名前が聞こえるようでは入ってくる客も入らなくなるだろう。いらぬ気を使ってみる。そんな私の小さな気遣いをよそに、その声はまたも聞こえた。
「そう、ウスバカゲロウ!ウスバカゲロウがいるんだ!」
今度こそ、その声の元に目を向ける。私の前方、一番端の窓際の席に彼はいた。クリームソーダを手に、私の見ていたウスバカゲロウ、もとい、ゆず香る和風おろしハンバーグのポスターの方に視線を向けている。そして、くるりと振り向いた。
「ウスバカゲロウ」
私は、ウスバカゲロウではない。
もうこんなに連呼されると、ウスバカゲ ウだって『薄馬鹿下郎』くらいに聞こえてしまう。大体、こんなやり取りの内に虫の一匹などいなくなっているのではないか。私は彼の顔から目を背け、ふいと再び窓を見る。
まだいてくれやがる。
「きれいだよね」
「え」
どこかうっとりと彼は言う。キレイ、きれいだろうか、ウスバカゲロウ。何だかとても気になって、私は席を立ちそれに近づく。ガタッと、遅れて音がした。
「あ、ほんと」
よく見れば繊細な模様の翅をしている。ぼやけて見えるのは細かくて短い毛が無数に生えているからだろうか。歩くにつれて翅とその柔らかそうな肢体がゆらゆらと揺れる。なるほど確かにきれいなものだ。
すると、ぐいと両肩を掴まれた。そして視線の角度を変えるように下に押される。勝手を取られ、流石に気持ちが表情に出ようかとすると、とても近くに彼の顔があることに気付いた。
色は白く、少し頬がこけている。目尻は下がり気味だが眉尻は柔らかく上がっている。年相応なのか(知らないが)、シワが刻まれてあるが整っている。
男の私から見ても、綺麗な顔だ。
「ほら、角度を変えると色んな色が見えるだろう」
「本当だ」
そう言ったのは、下から見上げた彼のまつ毛の長さとそこに反射する光で見える色の変化である。そのあとで、ついでにウスバカゲロウを見る。
「本当だ」
赤と青と緑の濃淡で様々な色が滲んで見えた。
「キレイ」
口にすると、嘘のようにウスバカゲロウは飛んでいった。
両肩が、熱い。
続 喫茶『彼』②【連続短編小説】- 5月8日 12時 更新
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