喫茶『彼』⑦【連続短編小説】
※前回の「喫茶『彼』⑥」はこちらから
なにが好きなのか、どこがいいのか、そんなものは分からないのだった。雨が降れば傘を差し、家に入れば電気をつける。そんなものと同じで、彼がいれば私は彼を好きになる。ただ、それだけである。
でも、と思う。
雨が降れば傘を差す。ここに、『差す』か『差さない』かの選択は確かに生まれない。家に入って電気をつけない選択は、これもまた生まれないだろう。・・・・・・ゼロではないけれど。これらの選択が生まれないとしても、傘を差すのに『どの傘を』差すかと言う問いは生じるかもしれない。家に入って、今日は悲しい出来事があったからすぐに電気は『つけない』と言う選択があるかもしれない。こんなことを言い出せばキリはないけれど、何だってどうとでも言えるのだと思う。
彼がいれば私は彼を好きになる。
そうなんだけど、『どの』彼を好きになるかはそれは選択である。
あの店のあの彼。
知らない誰かに触れるあの彼。
オーナーらしいあの彼。
私に触れて、きっと今はもう私を気にもしていないだろう、あの彼。
「やあ、久しぶりじゃない」
「あ・・・・・・」
目の前にいる、この彼。
私は、彼の店にいこうとしていたのだった。
天気はあいにくの雨で、じめじめと蒸し暑く僕の来ているポロシャツはじんわりと濡れている。彼の店には、すでに一ヶ月出向いていなかった。
「どこに行くの」
彼の表情は穏やかだった。柔和な笑顔が私を捉えて離さず、私は思わず下を向く。そこに彼の腕が見えた。その手は私の腕に、手の平に、指に触れる。そうして手を繋いだ。
「僕の店においでよ」
もう一方の腕で私の肩が抱かれ、彼に寄せられた。
私は、忘れていた彼の温もりや香りを思い出し、それを吸い込むように体を預けた。私は彼と一緒の一つの塊になって歩き始めた。傘はもう差していなかった。
店に入ると、いつにもましてしんと静まりかえっていた。レジのあの子の姿も見えないでいる。私は、体を動かすことなく視線をさまよわせて店内の様子をうかがっていた。
「静かでしょう」
そう言って彼は私の額にキスをし、体を離した。そうしてレジの奥に向かう。業務用の冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出した。蓋を開けて、飲む。2口、3口と飲んだところで私に顔を向けた。
「飲むかい」
私は吸い寄せられるように彼のもとに向かった。抱きとめられ、渡されたペットボトルを口にする。冷蔵庫に入っていたはずのその水は生ぬるい。
「店をね、畳んだのだよ。つい、昨日」
ガランとしているが調理場の機材や客席のテーブル、イスなどはまだそのままで、開店前だと言われても納得できる。畳んだとは気づかなかった。
「なんで」
私は生ぬるい水のペットボトルを彼に戻した。彼はまたそれを飲む。
「なんだかもう、よくわからなくなってしまってね。美味しくて気軽に入れる、誰かを喜ばせるようなささやかなレストランを持ちたいと思って店を始めたのだけど、僕はとんでもなく味音痴でさ。ツカサさん、ああ、あのレジの女の子ね。彼女は古い友人の妹なのだけど、元々シェフをしていたのでうちに来てもらったんだよ。とても美味しくてね、彼女のハンバーグ」
私も食べたことがあるので、それは分かると一つ頷いた。彼はそれを確認して微笑む。
「せめて僕ができることはないかと思って、お客さんを観察することを始めた。観察して、困っている人がいれば話を聞いて、それで時々温もりを与えたりして」
聞いていて、喉が灼けるように熱くなる。彼に返したペットボトルを再びもらい、私は一気に飲み干した。
「そうして、一体僕は何をしているんだろうと思ってね。僕はただ、美味しい料理の店をつくりたかったんだけど、それはもう、彼女がいるわけで。じゃあ、僕は何なんだろうと思って。そう思い始めるとどんどんと、何もかも嫌になってしまって。これでは彼女にも悪いし、ああ、これまでだって悪いなと思っていたのだけれど、より一層ね。だから、彼女が他にいい店に移れるようになったらその時は店を畳もうと決めていた」
「じゃあ彼女はもう」
「うん、他の店に行ってもらったよ」
私は、こんなにもキレイな涙を流す男を見たことがなかった。
見惚れて、私からキスをした。
続 喫茶『彼』⑧【連続短編小説】- 6月19日 12時 更新
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