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喫茶『彼』③【連続短編小説】

※前回の「喫茶『彼』②」はこちらから

 死にたそうな顔をしていたのは果たして誰だったのだろうか。

 床に落ちたウスバカゲロウは確かにぴくりぴくりと羽がわずかに動き、まだ生きていた。まだ生きていたけれど、まもなく死ぬことが分かるようだった。私はただ、それを見ていた。
 男は、ポケットからミントタブレットのケースを取り出し、カラカラとケースを揺らした後で手のひらに4粒出した。そうして、はい、と私の目の前にその手のひらを向ける。思わず一粒、指で摘んでみたが、その手は私の頬の涙を拭い、ウスバカゲロウをはたき落としたその手であった。

「僕もあなたも、もしかしたら明日にでも巨人の手のひらではたき落とされるかもしれないだろう」

 自信に満ちたその清潔な表情で問われれば、確かにそうかもしれないと思ってしまう。その証拠に、私は小さく頷いているのだった。

「だからね、そんな風に泣くほどに悩むことは大変にもったいないことなんだよ」

 そう言って私の頭にポンと優しく手のひらを乗せ、きれいに笑って見せた。私は妙に興奮し、頭の中はもとより、手のひらから足の先まで全身がじわじわと熱を持ち始めた。

「そんなことは分かっていますが、じゃあこの後すぐにあっけらかんと生きていけるかと言われると、それは無理な話です。第一、悩むなと言われれば、悩まないことや悩まない方法を探して悩んでしまうのが私のような弱い人間です。だいたい、悩まなくて良い方法ってどんなものですか。そんなものあるんでしょうか。きっとないのでしょうね。あったとして、それはきっと私には使いこなせない方法だ。私はもうそれら全てに疲れてしまいました。いろんなことに気を使い続けることも、我慢している様々なことにも」

 言って、私は途中で我に返り、急な恥を思い出す。思いがけず、カッとなってしまったのだ。初対面の妙な気配をもつこのきれいな男の前で。40歳を越えて、もうあとは観念して生きていくばかりだというのに、諦めきれない何かが私にも残っているのか、どうもこの数年、霧がなかなか晴れないでいる。だからこんな風におかしな主張をしてしまったのだ。
 私は頬の紅潮を感じながら、ゆっくりと彼の表情に目を移した。

 彼は、彼もまた、泣いていた。

「そうか。それは、きっと、うん、よく頑張ってきたんだな」

 そう言うとぐしゅっと鼻をすすった。私もつられて鼻をすんとならす。鼻の頭と目頭がまた熱くなり、私も泣いた。

「おいで、抱きしめてあげよう」

 私の両腕を緩く引っ張り、彼の内側に寄せられたかと思うとそのままぎゅうっと抱きしめられた。

「よく頑張ってきたね。大変だったろう、しんどかったろう。君はきっと一日一日を賢明に生きているんだね。それはきっと果てしなかったことだろう。頑張っていてもなかなか自分でその成果が感じられることもなく、毎日きっとなにも変わらない日々が続いていることにいつしか焦り始めたのかもしれない。そうして、頑張ることに疲れてしまったのかもしれないね」

 まるで幼稚園児でもあやすようにして、私を抱きしめては頭をなぜ、彼のその体温をじんわりと私に広げるのだった。

 中年の男二人が涙を流しながら抱き合って、傍目にもきれいなものでもないだろう。そう、傍目にも。

「店長ー!そろそろ戻ってくださいー!!ディナーの仕込み終わらないですー」

 妙に語尾を延ばす女性の声が背後から聞こえ、私の体は硬直した。

「はいよー、今行きます」

 私の頭上から彼の間延びした返事が聞こえる。私はまたゆっくりと彼の胸から離れ、顔を合わせた。

「と、言うことで、仕事に戻りますね。毎週月曜日のこの時間にはあいているからまたおいで」

 呆気にとられていると、彼は私の額に軽くキスをした。

 気色の悪い午後だった。

                                                                             続                      喫茶『彼』④【連続短編小説】-                                                    5月22日 12時 更新


 

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