見出し画像

11月10日ハンドクリームの日

 母の手は、いつだって魔法の手である。


 無理かもしれないと、私は俯いた。
 中学剣道部での最後の試合の日の朝である。

 頑張ってきたつもりだけれど、あくまでそれはつもりであって、実際には頑張っていないかもしれない。どうしたら強くなれるか、毎日考えて練習してきたけれど、それは考えたふりをしていただけで、実際には考えていない、そんな練習も出来ていないのかもしれない。真面目にやってきたつもりだけれど、本当は真面目ではないことももう自覚している。隙があれば怠けていたい。

 剣道だけの話ではない。
 勉強が出来ると思われている。でも本当は勉強など出来ない。得意ではないし、事実、成績も取り立てて良くはない。でも悪くもないから、「たまたまイマイチだったのね」と思われていたりする。多分、普段から真面目そうな私だからだろう。でも、真面目じゃないし、勉強も得意ではない。剣道だって、うまいわけでも強いわけでもない。

 ただ少し、好きなだけなのだ。

「無理かもしれない」

 袴に足を通し、腰紐を結びながら今度は小さくつぶやいた。母には聞こえなくても良かったし、聞こえていても良かった。反応だって、あってもなくても良かったのだ。つぶやいたところで、私が部長として最後の公式試合をしなくてはならないのは変わらないのだから。

「そうなの?」

 母は洗い物をしながら一言だけ返してくれた。そうなの?は、そうだよとも返せるし、多分ねとも返せる。けれど私は、何も返さなかった。

「あなたはどっちがいいの。勝ちたいの、勝ちたくないの」

 そんなの決まっているじゃないと思うが、言い返さない。けれどきゅっと腰紐が私のお腹と腰を締め付けるた。そのせいか、思わず出てしまう。

「勝ちたい」

 私が言うと、ジャーっと流れていた水が止まり、少ししてふいに顔を上げるとそこに母がいた。母は表情を変えずに私を見つめていた。私は密かに深呼吸をして、視線をはずす。はずした先で、母の手が見えた。エプロンのポケットからハンドクリームを取り出した母は、丁寧にふたを開けてにゅっと中身を手の甲に出す。両手の甲を合わせてクリームを伸ばした。ふわっとローズの香りがする。

「勝てば勝つし、負ければ負けるよ」

「え」

 母のよく分からない言葉に顔を上げると、母の両手が私の頬を挟んだ。ふわりと香るローズがぴたりと私の頬に止まる。

「勝てばいいし、負ければいいのよ。簡単なこと。あなたのことだから、もっと頑張って練習しておけば良かったとか、何だったら、そもそも自分は弱いのに、とか思っているんでしょうけど」

 ・・・・・・強くはないと思っているが、弱いとは思っていないけど。

「そんなこと思おうと思うまいと勝つときは勝つし負けるときは負けるのよ。あなたの責務は勝つことじゃない。試合をすること。ただそれだけ」

 そう言って母は私の頬にハンドクリームを刷り込むように円を描いた。

「大丈夫、大丈夫」

 ローズの香りが香り度、私のモヤが晴れていく。

「お母さんの子だから大丈夫」

 剣道未経験の母が笑う。魔法は母の手ではなく、ハンドクリームのほうかもしれないと思い、私は笑った。母の大丈夫はローズの香りがした。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【今日の記念日】

11月10日 ハンドクリームの日

いつも頑張っている自分の手に感謝する日をと、ハンドクリームメーカーのユースキン製薬株式会社が制定。日付は11月10日前後は東京の平均の最低気温が10度を下回る境目であり、肌が乾燥して手荒れが増え、ハンドクリームの需要が高くなることと、11と10を「いい手(ン)」と読む語呂合わせから。


記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
https://www.kinenbi.gr.jp の許可を得て使用しています。

いいなと思ったら応援しよう!