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(完)鈍-nibi-⑨【連続短編小説】

※前回の「鈍-nibi-⑧」はこちらから

 羽アリは笑っていただろうかと、亮司は空を見上げて思い返していた。空にはどんよりと曇がかかり、視線の先には一点だけの星が小さく光る。

 笑っていたかなど、知らない。ただ一匹の羽アリに表情を見ることなど、彼でなくても誰だってあるはずもないのに、それでも彼は思いだそうと懸命だった。露天風呂では胸から下が体の芯から熱く、一方の胸から上は夜空に冷えてそら寒い。程良く回った酒は、まもなく体から消えていくだろう。そう感じるほどに、頭は冴えていく。

 美しいものを見ていられるのなら、それでいいと本当に思っていた。彼女たち姉妹が綺麗なまま、その距離で、その空気の中で生きていてくれるなら、僕はどれだけだってそれを保つ努力をしようと決めていた。2人の感情の、その均衡が維持できるようにどうか手綱を握ってくれと、絵理が言うのなら、しっかりと握ろうと思って腕に力を込めたのだ。

 けれど僕の握ったそれは綱などではなく、なんとも頼りない細い糸だった。懸命に力を入れれば僕の手指の肉に食い込み、鬱血し、プッと血が滲むこともある。頼りなくて、強い糸。力を抜けばふよふよと飛んでいってしまいそうなその先を思い、ぐいと力を込めて血を滲ませて、僕の元にたぐり寄せて抱いた。糸の先には確かに莉緒がいたはずなのに、莉緒の元に糸は繋がれていなかった。

 僕は最初から何も握ってなどいなかったのかもしれない。

 そりゃそうだ、僕は絵莉に言われて莉緒を抱いただけなのだ。お願いねと、絵莉には手綱と言う何も繋がれていない糸を渡され、それを持って得意げに姉妹を見ていただけ。僕は何の均衡も保ってなどいなかった。その証拠に、手を広げて糸を放しても、ほら、何も変わらない。そもそも、均衡もなにもなかったのではないか。
 じゃあ、なぜ僕に『お願い』したの。

 頭をクリクリと回していたあの羽アリは、ティッシュの中で一瞬でも笑っていただろうか。

 ふふふ、と絵莉が微笑んだ。その声に、胸の中で莉緒が顔を上げた。

「どうかしたの」

 そっと口づけ、もう一度優しく抱きしめた。

「結婚前の最後の旅行だなんてなんの意味もないわね」

「うん、そうだね。でも意味のないことなんてなんだってそうでしょう」

 絵莉の右手をとり、自分の耳に触れさせる。耳が、熱い。

「そうね。耳の軟骨に穴を開けたところで、その先が見通せるわけでもないし、その穴からこちらの穴に糸を通して繋がれるわけでもないし。ただ、針を刺すその一瞬がための行為だわ」

 コリコリと、耳のそろいのピアスを指でいじって見せた。熱い耳に、ひやりと絵莉の指が触れたことに気付く。

「頑丈な糸でも繋いでおけるなら火葬場で隣に並んで焼いてくれるかしら」

「・・・・・・いや、ふつうに糸を切られるでしょう」

 莉緒が言い、絵莉が笑う。そして目を閉じた。

「そうね。じゃあやっぱり意味などつけずに終わりましょう」

 莉緒は小さく頷いた。少しずつ、鼓動が揺れる。

「彼は。彼はどうしてくれるかしら」

 言いながら鎖骨に触れ、続ける。

「鎖骨の出方がお姉ちゃんに似ていると彼は言ってくれたの。私、それが嬉しかった」

 幼い頃に見た、そのままの少し照れた顔で莉緒が笑った。それは久々に見る彼女の自然な笑顔であったが、絵莉は気付かない。手を伸ばし、鞄の中から薬を取り出した。

「彼がいてくれて良かった。私と貴方の宝物の日々を愛して覚えていてくれる人がいて良かった」

     絵莉は小さな錠剤を2つとり、舌に乗せて水でそれを流し込んだ。静かに、目を閉じる。

「うん。私がどれほどお姉ちゃんを愛しているか、分かってくれる人がいて良かった」

    莉緒も錠剤を手に取った。そのまま、コップの水に落とした。
    ポチャン、と言う水音に、絵莉は薄く目を開けた。莉緒はしっかりと目を開けて絵莉を見つめている。

「お姉ちゃんが、私を離さない為に彼を選んだように、私もお姉ちゃんを独り占めする為に彼を選ぶことにした」

    何を言っているのかと、体を起こそうとするが既に力が入らない。

「大好きなお姉ちゃん。私が死ぬまで、私の中で永遠に生きて」

    莉緒の唇が重なり、その冷たさに驚く。冷たいのは莉緒の唇か、それとも絵莉の唇か。薄く目を開けたその視界が段々とぼやけて見える。ついさっきまで光り輝いて見えていたのに、鈍く歪み、暗くなる。右の耳に何かが触れ、何かが離れた。チッと音がする。

「私も右耳の軟骨に開けたの。これからは私が付けておくね、ピアス」

    ブブ、と羽音の様な音が聞こえ、こと切れた。

    羽アリは笑っていただろうか。

    それとも、鈍く沈んでいく視界に涙をしたのだろうか。
(完)

☆2ヶ月に渡りご購読頂きありがとうございました。これにて『鈍-nibi-』は終わります。
2022年、残る2ヶ月はお休みをいただき、次回作は2023年1月2日(月)12時に公開いたします。
2ヶ月あきますので、その間、時々、何らかの形で顔を出しますので、どうか覚えておいていただけると幸甚です。
引き続きよろしくお願いします。
秋が一瞬間、笑ってみせるとすぐに冬になりますね。
今がまだ秋なのか、もう冬なのか、自分がどこにいて、どちらを向いているのか、そこに誰がいるのか。目を閉じて、再び開けると存外思い出せないものです。
でも、今立っているその場所が、紛れもなくあなたの今いる場所です。
私はここにいます。
それだけなのでしょうね、本当は。

ではまた。

あにぃ

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