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喫茶『彼』②【連続短編小説】
※前回の「喫茶『彼』①」はこちらから
昼にしては遅すぎる時間だが夕方とするには早い時間である。私は、会社を午後半休にしていた。
私は、ちょうど今さっき、死のうと思った。数分前までの話である。座っていた、彼の後列にあるテーブルとイスで、ぼんやりと外を眺め、道行く人を何の気なしに目で追った後、運ばれてきた『ゆず香る和風おろしハンバーグ』を食べ、ふむ、確かにゆずが香っているなと思って再びそのポスターのある窓を眺め、これもまた何の気なしに死のうと思った。
死のうと思って、ポスターを眺めていた。
別に理由はないのだ。今日、午後を半日休みにしたことと同じくらいに理由はなく、ただ休み、ただ死のうと思った。
現実に疲れたとか、頑張っても報われないとか、自分にはもっとやりたいことが、とかそんな格好の良い理由はない。けれど、生きていることの意味が分からなくなってしまった。何かきっかけになるような大きな出来事があったわけではない。ある日ふと、なにかしらの電源が入っていないことに気づいた感じだろうか。例えばそれは家庭用ルームランナー。時速4キロくらいのゆるいジョギングを30年以上続けていたが、実はいつからか電源が入っておらず、それに今更気づいて立ち止まった。いつから電源が入っていなかったのか、それまでどのくらいの距離を走り、どの程度カロリーを消費したのかも分からない。調べるすべもなく、立ち尽くすばかりである。これが全力で走っていたのなら、電源が止まったことにもすぐに気づいたことだろうし、もし歩いていたのならすぐに気づかなかったとしてもそれまでと同じように再び歩き続ければいいだろう。
けれど私はそうではなかった。全力で走ってきたわけでも、マイペースに歩いてきたわけでも無かった。周りの速度に合わせるように緩やかだが、走っていた。時には速く、時にはもっと緩やかに。周りから見ればきっとその時々の私は必要に足る私であったことだろう。そうして、生きてきたし走ってきた。きょろきょろと周りを見回しながらゆるいジョギングをしてきた私が、ある時にその足を止め、振り返るとそこにはなにも無かった。そして前を向いてみても景色は霞んで私にはなにも見えなくなっていた。これまでもこれからも、私が生きることにどのような意味があるのか分からない。
生きる意味があるのかないのか分からないのに、毎日会社に通ってはいろいろな人と接し、誇れる仕事が出来るわけでもない私は神経をすり減らし、それで金を稼ぐ。有り難いけれど意味が分からない金を稼ぎ、生きている。
なんだかなぁと思い、死ぬと思った訳だが、そこにはウスバカゲロウがいて、美しい彼がいた。彼の手が触れた私の両肩はじんわりと熱を持ち、ウスバカゲロウが飛び立つ頃、私は泣いた。ひらひらと羽を煌めかせながら美しく飛ぶ。
私の肩から手を離し、彼は頬の涙を拭う。そしてその手は静かに空を切って見せた。私の涙の水滴が飛び、同時に黒い小さなそれが床をめがけて落ちていく。落ちるも飛ぶも、ウスバカゲロウはひらひらと煌めいていた。
「死にたそうな顔をしていたからね」
少しだけ哀しい表情をして、彼は微笑んだ。
続 喫茶『彼』③【連続短編小説】- 5月15日 12時 更新