喫茶『彼』④【連続短編小説】
※前回の「喫茶『彼』③」はこちらから
まだ梅雨の前だというのに、日差しもあまり届かない家の中にいるというのに、今日はひどく蒸し暑い。
ドアノブに手をかけて、本日最初の外出一歩目を玄関から踏み出した。首筋にはすでにじんわりと汗が流れる。ふと下を向く。視線に入った私のスニーカーの先っぽ、白いゴムの部分が汚れている。出した一歩を引っ込めて靴を脱いだ。靴箱の上に常備しているウエットティッシュでそれを拭いてやる。ゴミ箱にそれを放り、汚れがなくなったことを確認して再び靴を履く。
先週の、あの彼に会った日から一週間経ち、月曜日の昼休憩の時間である。私がなかなかその一歩を進められないのは、いくつか悩んでいるからである。
死ぬか、生きるか、彼に会いに行くか。
生死と彼を同列にすることには少しも不思議を感じないが、一方で私がまだ生きていることには不思議を感じている。
よし!と、心の中で意気込み、そのまま私は自宅を後にした。
私は彼に会いに行くことにした。
生きるか死ぬか、死ぬか生きるか決め切れぬまま毎日を過ごし、決めきれない私のままで、もう一度彼に会ってみようと思ったのだ。この一週間、やっぱり何となく死んでしまいたいなぁとぼんやり思うことはあった。職場の上長にやんわりとメンタル不調(こうして文字にしてみるとなんだか機械のどこかの不調のようだ)を伝え、週の半分を在宅勤務にしてもらった。だからといって、何か変わるわけではない。
けれどもしかしたら、私はこの変わらない中で『新しい何か』が欲しかっただけかもしれない。その新しい何かにちょうど彼が引っかかってくれたから、私はまだ生きていて、その何かに少しわくわくしていたりするのかもしれない。などと、どうでも都合の良いことを考えるので、自分で思わず笑ってしまった。
本当に、どうしようもない私だと思う。
苦しいと思うときでさえ、自分でどうしたいのかも決められず、もしかしたら彼が何とかしてくれるかもしれないと淡い、いや多分に期待してさえいるのだ。多分死ぬ気はないのだろう、私。
入り口のガラス扉の中をのぞき込むと、目の前にクサカゲロウがいて驚いた。私が動いたことで、それも驚いたのか、飛んで行ってしまった。ひらひらりと。
もう一度のぞき込むと、店内の奥にいる彼とばっちり目が合った。そうして彼は私に向かって、ニィとゆっくりと笑い、口元に人差し指を当てた。
彼は、私ではない誰かを抱いていた。
その後ろ姿から、相手は女性だろうか。セミロングヘアが見える。
私はザワリと胸に触る何かを感じながら、彼の示すように静かに店内に入った。レジには語尾の長い接客をする彼女がいるが、いらっしゃいませもなにもない。そう言えば私が先週来たときも入り口ではなにも言われなかった。
おそらく、この店のこの曜日のこの時間は、そう言う時間なのかもしれない。
「しそ香る和風ハンバーグください」
「はい、少々お待ちくださいね」
私が注文すると彼女はレジを打ち、厨房にいる誰かにそれを伝えた。全て小さめの声だった。そうしてそのまま私に告げた。
「まもなく終わりますので、少々お待ちくださいね」
ハンバーグの他にも何か注文しただろうかと思ったが、すぐに分かった。彼のことだ。すると、その彼の声がした。
「またおいで」
そちらを向くと、抱き合っていた二人はすでに離れており、セミロングの人はこちらに向かってきた。こちらも、きれいな顔立ちの······おそらくは男性だろう人だった。
「やあ、よく来てくれたね。一週間、よく頑張ったね。生きていてくれてありがとう。さあ、こっちへおいで」
彼は流れるようにそう言うと、私に向けて両手を広げた。私の後方でバタン、と音が鳴り先ほどの男が出て行ったようである。どこかからジュウジュウと言う音と、香ばしい肉の焼ける匂いがする。嗅ぎながら、私は吸い寄せられるように彼の元に歩き始めた。
なにから言おう。頑張ったと言ってくれた彼に、私はなにから伝えればいいだろう。そう、頑張ったんだ。私は確かにこの一週間、なんとか持ちこたえた。そう言おう、あなたのおかげで何とか生きられたと。そして、さっき、クサカゲロウを見たと、そう、伝えよう。
彼の胸に触れ、抱きしめられた。
数十秒前にそこにあった熱がほのかに残る。それは熱くてやっぱり今日も、今このときが気色悪い。
続 喫茶『彼』⑤【連続短編小説】- 5月29日 12時 更新
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