「ありがとう」って「気づくこと」だ
今日はこども3人から「ありがとう」と言ってもらえた。
3人の年齢を平均して約3歳。ほほえましいかぎり。
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そんな今日のしあわせな出来事をシャワーを浴びながら回顧していると、はたとあることに思い当たった。
彼らは、自分が他人から何かを「してもらった」ということを分かっていたんだ、と。
感謝の言葉は、ある人が何かしらの行動をした際に、その行動が自分(もしくはもっと広い対象。例えば自分の家族に対して何かをしてもらった、とか)に良い影響をもたらす時に発せられる言葉であると思う。
(他のニュアンスで使うこともあるけれど。)
で、ここからが本題で。
そもそも、ある人のその行動を認識できていないと、私たちは「ありがとう」とは言わないと思う。
相手が行動していても、それをスルーしてしまったり、そうされることが当たり前だと思っていると「ありがとう」という言葉は口から出てこない。
例えば、私はコンビニとかスーパーのレジでお会計をしてもらった時、店員さんに「ありがとうございます」と言うようにしている。それは、店員さんが私のためにレジを打って計算してくれて(私は計算が苦手なので、その点で言ってもありがたい笑)、袋に購入品を詰めてくれたことに対しての感謝の意を込めて。
でも、無言で立ち去る人も時たま見かける。
別に「ありがとう」という行為は強要されていることではないし、何かしらの理由があるのかもしれない(喉を痛めてて声が出せない、とかね)んだけれど、
そう人たちはもしかしたら、店員さんの行為はしてくれて「あたりまえ」である、それは毎日朝が来て夜が来るかの如くごく自然に起こることである、と思っているんじゃないかな、と。
そうなると、
「この人は私のために動いてくれたんだ」と気づくことって、実はすごいことなのかもしれない、と思う。
「ありがとう」と言うことって、「私はあなたの素敵な行動に気づいているよ」って言っていることなのかもしれない。
あのこどもたちのように、私も「ありがとうセンサー」をピンピンに張って生きていきたいな
と、たった数分のシャワーの時間に思ったのである。
どこかの偉人が、シャワーを浴びていた時に閃いた、みたいな逸話を聞いたことがあるが、あれは本当なのかもしれない。