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スピッツの歌詞のように私を想ってB'zの歌詞のように私を愛してくれ


これは本当に心から思っています。

今後私と恋愛をする男には、この言葉をそのうち宣言しようとさえ思っている。


理由は単純で、好きだからです。


両者とも曲数が多すぎて

「全曲わかります!!」

とは言えないのでごめんなさいと思いますが

暮らしている中で

「B'zの話できないな」
「スピッツの話できないな」

と周囲に思うレベルには好き、と言う感じ。

いや本当に聴いていないアルバムとかは
全然あるのでそこは糾弾なしでヨロシク。


ただ、「聴いてきた曲たち」

への愛は「負けないぞ!!!!」と
胸を張って言えます。


幼少期の1番幼い頃に

「好きだった曲」

と記憶しているのが


「LOVE PHANTOM」/B'z
「ロビンソン」/スピッツ
「ズルい女」/シャ乱Q
「LOVE LOVE LOVE」/ドリカム


というラインナップなのです。

そしてこれはまんまと
自分の音楽のルーツになっているなあと人生の中で何度も感じます。三つ子の魂100まで、と。


数年前に友達と話していて

「タトゥー入れたいって思ってた時期もあったけど、そんなに入れたいものもないや」

と言ったら

友達は少し上を向いてから  
思い出したように

「あんな前、LOVE PHANTOMってタトゥー入れたいって言ってたよ」

と言い、私は爆笑した。


言ったかも。
めちゃくちゃ言いそう。


「LOVE、PHANTOMって入れるって」

と友達は両手の人差し指の外側の側面を
交互に指した

そうだ、指の側面にタトゥー入れたいって
かなり熱望していた時期が確かにあった。

この横長のスペースに入れるなら

単語や言葉は候補にあがりやすく
そこで私が
「LOVE PHANTOM」と入れようとするのは
あまりにも自分が言いそうなことだ。

こんなにも好きなのだから、と


「こんなに好きなら
入れようかなって言ってたよ」


ああ、やっぱり。


こんなことも起きるくらい

「絶対的に好きなもの」の中にB'zがあります。


B'zは母も姉も好きで

毎年家族で海に行くときや

母の実家の岩手までの往復の車で

エンドレスでB'zがかかっていました。


なので、まるで血液や空気のように
自分の要素として
B'zに浸かって生きてきたのですが

中学生〜から
「あ、人生が、辛い」
と今思い出しても苦しくてヒリヒリする
そんな時代に自分の心を支え
そして成長させてくれたのもB'zの歌詞でした。


今でも自分の価値観のベースになっているなと
思うものが多々あります。


例えば

「love me,I love you」とか
歌詞の全てに影響を受けています。


「人の心はどうしても何か足りないけれど
そこんとこ埋めるべきなのは
恋人じゃない 親でもない ねえ、そうでしょう」


「love me けちってないで
ボクはきっと愛をもっと出せる
I love you おごらせてるだけじゃ
そのうち誰もいなくなるよ」

「Let's give It away けなしてないで
たまにゃ海も山も人も誉めろよ」


どれも全部、大人になった今

「ああこうならなくてはな」

と日々の中で身に染みて思うようなことが

あれ?実はlove me,I love youで
すでに歌われているよな?

と思います。

「おごらせてるだけじゃ
そのうち誰もいなくなるよ」

って、思う相手って死ぬほどいるじゃん。
社会って。

「たまにゃ海も山も人も褒めろよ」

もね。

私は自分の良いところとして

「家電を褒める」という点があるんですが

そういうのもこのあたりから実は

影響を、受けてるのかもと思います。


こんな風に
B'zの歌詞は本当に生きる上での
バイブルのような指針になってきたなと
ずっと思っているのですが

実は私の求める恋愛や愛も
究極はB'zみたいなことなんだよなと思います。


B'zの書く恋愛って
昔は「女を追いかける」
みたいな、青臭いものも多かったですし
それも勿論好きなのですが

途中からはもう

「究極の愛」みたいなものが
多い気がしています。

なんだろうな、本当に
「女神のような存在」として
相手の女性を思っていて

「あなたさえいれば」
と言うのが伝わってくるというか
それにグッときています。

「あなたへの努力は いつまでも惜しむつもりはないよ」とかね。NATIVE DANCEの。


本当に「それってマジで愛だね」と思う。


「自分が恋愛に求めることってなんだろう」

って、年を重ねるたびによく考えるのだけど

本当に結局は

「お互い努力を惜しまない相手」

であることを望んでいるなと

受けた影響の大きさを痛感します。



恋愛をしていても


「私じゃなくても良いなら、じゃあ良いじゃん」

と私が思ってしまうのも

たぶんこの歌詞の影響ですね。


いつも誰に対しても

「私はてめーの運命の女だよ、
てめえがそう望むならな!」

と思って生きていて


そういう思想もそのあたりからきているなと
ふと今思います。



なので「この人だ」と思う相手には

マジで「B'zの歌詞のように私を愛せよ」
と言うつもりです。いつか。



そしてスピッツ。


スピッツは、中学生の頃に特によく聴いていて

そのアルバムが死ぬほど好きで
そして大人になってから
私の男友達もそのアルバムが好きと知り

一緒に飲んで酔っ払うと
そのアルバムを流して

全曲のコーラスやリフや伴奏まで
一緒に歌ったりしています。


次の日車の中でそのアルバムをかけたら

「うわ最高!久々に聴くわ〜」

と言われ

「昨晩しこたま聴いたよ」と言うと

記憶をなくしていた相手は驚き
二日酔いで苦しみながらもまた歌い

「えっ!なにこれ、
スピッツ歌うと二日酔いが楽になる!」


とか言ってました。



B'zは幼少期の方がズブズブに聴いていたのですが

スピッツはその後大人になってから

特に25歳を超えたあたりから


「あーもうスピッツにしか
救えない気持ちがある」

と、思うようになりました。


「スピッツの歌詞みたいに優しくなりたい」

と何度も思いましたし、

人とデートをした後にスピッツを聴きたくなると

「これは良い恋だな」と思ったりします。



スピッツの歌詞は、優しい。
本当に優しい。

そしてそんな優しさに、
こんなにもグッとくる自分にも驚く。

「これほどに柔らかい気持ちが
自分の中にあったんだ」と思わされます。

普段、生きている中で
あまりにも繊細で、そして大切だから
人には見せないように、傷付けられぬよう
大事にだいじに心の底にしまっていて

いつしかその形を忘れかけてしまっているような
そういう感情というのが
実は沢山眠っていたんだなと思うんです。
スピッツを聴くと。



とくに「楓」。

「楓」を聴くといつだって
泣きそうになってしまう。

いつも「あー泣きそう」
と言いながら聴いていますが

先日本当にこの曲を聴きながら
涙がツーと流れました。


私は夏休みで1人で小豆島に居て

その小豆島で1人でチャリを漕いだり
車の運転をしながらも
スピッツをずっと聴いていて

運転中に海が見えてきた時に
自然と笑顔になって、スピッツをそのまま歌って
「ああ、この瞬間のためにこの島に来たのかも」と思いました。


元々好きな映画の舞台、ロケ地だったため
小豆島を訪れていたのですが
小豆島に滞在しながら
ずっとその映画の登場人物のことを考え
思いを馳せたり、幸せを祈ったり
自分の人生や生活の事も時折考えて
そんな時間の中で、耳に届くスピッツの歌が
あまりに優しくて、嬉しかったです。


帰りの姫路までの船の上で

デッキに出ると、海と雲がとても美しくて
離れて行く小豆島が光り輝いていて

「ああ、なにこれ、神様かも」

と思いました。

「愛のことば」の

「雲間からこぼれ落ちてくる
神様たちが見える」

ってこれじゃん、と。


また映画の人物たちを思い出し
色んなことを考えていて

そしてベンチに座ってスピッツを聴き

海と雲をぼーっと眺めていると


さっきまで大く巨大な雲に見えていたものに
船が近づいたと思ったら

塊に見えていた雲が
観る角度が変わるたびに
ほわっ、ほわっと分解され
小さな小さな煙や蒸気のように
ぷかぷかと沢山浮いていて

塊のようで全ては
小さなこの煙たちの重なりだったのだと

「雲は水蒸気なんだ」と
昔教わったことを
初めて目の当たりにして


目の前に沢山浮かび
立体的に重なり合う水蒸気たちに囲まれて
まるでディズニーのラプンツェルに出てくる
ランタン祭の光たちのようでした。



その時に耳からは「楓」が流れていて


「これから傷ついたり誰か傷つけても
ああ 僕のままでどこまで届くだろう」


という歌詞で、

あああー、と胸が詰まり
目を閉じて涙を流しました。


その、私の好きな映画というのは
「八日目の蝉」です。


主人公の希和子は、
不倫相手との子供を身籠り、中絶して
あるとき不倫相手と本妻の子供を
誘拐してしまうんです。


そこからは誘拐した子供と希和子の生活が始まり
様々な場所に身を隠す様子が
映画内で描かれているのですが

希和子が、誘拐した子供薫と最後に暮らすのが
「小豆島」なのです。


小豆島で薫は初めて海を見て怯えます。
そんな薫を希和子は
「大丈夫だよ、怖ないよ」といって抱きしめ

別の日には広がる海を見て
「おっきいねえ、綺麗だねえ」
という薫を見て


希和子は
「ママ、頑張って働くよ」
「綺麗なもの沢山見よう」
「なんでも、買ってあげる」

と、薫の目を見て希和子は言うんです。

この島は、希和子にとって
希望と絶望を同時に抱えた島だったと思います。
それでも、映画の中のシーンでは
希望で満ち溢れた、キラキラと輝く
そんな2人が映し出されていた。


そして希和子は、薫のために
本当に薫との日々のためだけに
そうめん屋で必死に働きます。

最後は捕まってしまうのですが
その最後の最後まで
希和子は薫のために、薫との日々のためだけに
全ての行動をするんですね。
それは他者から見ても明らかなもので
それは紛れもなく愛で、
でもその愛する子供は、本当は他人の子供で。


小豆島から帰ってきて
実家に寄りお土産を渡していると

姉から「なんでこの島?」
と聞かれました。


「八日目の蝉って映画が好きで
毎年観ていて、その舞台でロケ地なの」

と答えると

「どんな映画?何が良いの?」
「結構怖い映画だと思ってたけど」

と、聴くので
少しだけ映画の概要を説明しながら

「ああ、でも
私たちみたいな人は余計に
感情移入して観れるのかも」

と突然気がつき、答えました。


「もう10年くらい何度も観ているから
感じることもどんどん変わってきてるけど
最近観るとお母さんがこんな気持ちで
私たちを育てたんだなって、
思うようになったよ」

と答えると、

姉は「ほう」という顔をしていた。


私たちは母子家庭で育ち
義理の父親がいる時期もあったけれど
私たちが「親」と思う存在は母だけです。


母は「子供だけは渡さない」と
ものすごい剣幕で離婚をした人で、
揉めないために養育費も貰わず

今になっては
「マジでなんで貰わなかったの?
ありえないんだけど」
と母に言うことはありますが

「でも親権を取られたら嫌だったから」
と言うので、
ああ、揉めたくなかったのか
と思ったのと同時に

どれだけ必死に親権を守ってくれたのかを
その時に感じました。


私たち姉妹は苦労しました。
正直言って結構過酷でした。
命が危ういことはなかったし、
食事に困ることはなく生活もできましたが
心はずっと追いつかず
大人になっても姉妹で引き摺るくらいの
大きな大きな荷物を抱えてしまいました。
そのくらい辛いことは沢山ありました。


私たち親子、姉妹関係は
少し変わっていて
「やたらと母親を、対等に見ている」
点もその一つではあるのですが

姉と私の会話は
「本当に母親のことを話している?」
と疑われるような内容な時も多くあります。

「本当にあの人はさ、、」
というトーンでよく話しているのですが

私たちも大人になり、
冷静に過去のことを思い返すと


「命は守られてたし、
愛されていたのはわかるけど
お母さんは私たちの心を
全く守れていなかった」

と、時々話します。

人と違う環境で、
書けないような辛いことが多々あった中で
他の皆と、同じように学生時代を過ごすというのは本当に厳しいものがあり

その上で母は
「子供の心」をケアできる人間ではなかったので
私たちは自分の心も、
自分で守ったり育てる必要があり
それは本当に苦しかったです。


結論としてよく二人で
「まあ生活だけでも必死だったんだろうね」
と母に対して話したり
「にしても私たち大変すぎたよな」
と話したりします。


そんなことを全部踏まえて


「お母さん、私たちを育てながら
こんな気持ちだっただろうなって思う」

「自分がしてもらったことを
思い出すように観てるよ」


と答えました。


その後姉が映画を観たのかは不明ですし
観たとして私と同じ感想を抱くかは
わからないのですが


そんな気持ちや諸々もあり

小豆島では色んな、本当に色んな気持ちを
抱えながら過ごしていました。

薫に自分達を投影し
希和子に母を投影することもありますが

希和子に、自分を投影することもありました。


「八日目の蝉」が好きすぎるから
ということもありますが


もう私は、
この映画を愛してきた10年以上の間に
希和子という人間に
強い愛着を感じていたのです。

希和子がどんな気持ちで島で生きていて
どんなに薫と生きていたかったか、とか
いつか見つかってしまうと思いながら
それでも「今だけは」「少しでも長く」
と、その生活を存えていたこととか。

いけないことだと、
ダメなことだということは
希和子もわかっていたのです。
そんなのは当然。


希和子も傷付きすぎるくらい傷付き
そして他人を大きく傷付け、
犯罪に手を染めてしまいました。

それでも紛れもない愛が
希和子と薫の間にはあったのです。


希和子は映画冒頭のシーンで
「逮捕されるまで毎日祈るように生活をしました」と言います。


物事には色んな側面がありますが
私はただ、
その希和子の祈りの純度と想いの強さを
感じ取り、目を離せないのだと思います。


何が良いとか悪いとかじゃなくて。


そして船に乗りながら

「そういえばこれ実話を元にしていたよな」

と、映画の元になった事件を
初めて調べていました。


希和子のモデルになった人物は

実は、不倫相手の子供二人を
家ごと燃やして殺してしまっていました。


私はこの映画を好きでいながら
それは初めて知った事実でした。

犯人の女性は、
希和子同様、不倫相手の子供を堕していました。

「生まれていたら
自分の子供と同じような年だった
私の子の魂が入っているように思えた」
とも言っています。

誘拐することも考えたと。


映画の冒頭で希和子が
「子供を一目見たい」と家に忍び込んだのに
子供の顔を見た瞬間

「、、、薫」と呟いて
泣きそうな笑顔で抱き上げます。

あのシーンを見て私は

「自分の堕してしまった子供が
目の前に現れたように思ったんだろうか」

と解釈していました。


本当にそんな気持ちを、
実際の事件の犯人も思っていたなんて。



その事件の記録を読みながら


「ああ、せめて、、、
せめて放火ではなく誘拐であったなら
この犯人の女性はもっと罪も軽く
刑務所から出れていたのか」

と考えたりしていました。



そんな気持ちのまま、聴いていた

スピッツの楓

「これから傷ついたり誰か傷つけても
ああ 僕のままでどこまで届くだろう」


という歌詞が

胸に響きすぎて
何かが、ボロボロ剥がれるみたいに
船の上で泣いてしまいました。


私には犯人の女性のことも
希和子のことも
私の母のことも

本当に理解することなんて出来ないけれど

そんな私も含めて
「僕のままでどこまで届くだろう」
という、祈るような気持ちは
皆にあるような気がして

そして、そう祈ることさえ
烏滸がましいことであると
感じることは多いように思うのですが

そう思うこと、そう祈ることを
許されているような気がしました。
楓を聴いていると。

その優しさに泣けてしまいました。


本当に好きだよ、「楓」。



ああ、恋愛の話だったはずなのに
少しズレてしまった。
でもこれだけ、スピッツの歌詞には
救われていたり、愛があるよという
話なのです。


本当に好きです。


スピッツの曲を聴きながら
人を愛する方法を知っているような
そんな気さえします。



「君の耳と鼻の形が愛しい」とかね。



人を好きになった時の
細やかな感情や、心の機微って
実は人って覚えていないような気がして

「なんで好きなの?」と聞かれても
困ってしまったり
「好きなところ」は答えられても


「好きになった理由」や
「恋に落ちた瞬間」とか
その時の心のことだったり、
その時見えていた景色のことって

そんなに、細かく覚えていられなかったり
忘れてしまったりすると思うんです。


それをスピッツが思い出させてくれます。


「明日君がいなきゃ困る」とか。

「君と出会った奇跡が この胸にあふれてる」

「誰も触れない二人だけの国君の手を離さぬように」

「甘い言葉耳に溶かして僕のすべてを汚してほしい」



とかね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

好き、好きすぎる。


「大好き」や「愛してる」ではない

「好き」や「I love you」が
スピッツの曲には溢れているように思うのです。



やはり宣言したいですね
「スピッツの歌詞のように私を想え」と。


自分と恋愛をして、
こんな風に思ってくれたなら本望だよな。


私も「好き」って言葉を使わずに

沢山「好き」を伝えたい。




にしてもバキ童チャンネルファンの私が


B'zとスピッツが好きって
あまりにも出来すぎているんだよな。


しかも元から好きっていうね。


バキ童チャンネルの
B'zの企画もスピッツの企画は


正直ファンからしても神企画です。




好きな音楽は沢山あるけれど

B'zとスピッツの曲と歌詞を

今後も強く重く、愛していきます。



という決意のようなnote。





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