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カントリーマアムがどんどん小さくなっていくから泣いてもいいかい


カントリーマアムが小さくなっていく事が
あまりにも悲しい。


悲しすぎる。



私の良いところの一つに
「雨とか雪で怒らない、機嫌が悪くならない」
という点があって。
それは単に雨とか雪が嫌いではないし、
なんなら雪は大好きだし雨も
どちらかというと好き。


確かに不便さが生じるという点は認めるし、
それで困る事があるのは事実だ。
雨は冷たいし、傘が必要だし、
移動の時間が変わったりするし

何より髪の毛がボハボハなので好きな男に会う「頑張るゾ」って感じのデートの日の天気が
雨だったり、雨の前であるとビジュアルが普段より4割減する気がしてめちゃくちゃ困る。
「今日の私最高」って気持ちで
デートに望めないのは結構つらい。



雪も雪で、
時々東京にも大雪と言われる雪が降る。
交通は崩壊し、電車が止まる。
10年前くらいの大雪では
雪が積もりすぎて踝はゆうに超え、
歩くと靴に雪が入るのでタクシーしか術がなく
更にタクシーも大忙しで捕まらず、駅前で1~2間ほど凍えるようにタクシーを待っていた。

あまりの寒さに体が震えるので
自分の体を抱きしめて、まっすぐ立っていられず 

中腰でかがみながら、
寒さを紛らわすためか熱を生むためか
無意識にずっと身体を小刻みに動かしていた。




そんなこんなを踏まえて、
それでいても、雨と雪は好き。

今年こそガッキーの願いが叶って
降る雪が全部メルティキッスになったらな、 とか考えて
「そうなったら人々はみな、
ココアパウダーまみれになってしまうので、
流石に少し困るかも」と思うけど

それでやっと「少し困るかも」と思う程度。
というくらい雪は好き。
雪国に暮らしてないから憧れるんだと思う。

雨や雪というのは日常を彩ってくれる要素が割と多いような気がしている。
雨や雪を抜いてしまったら
崩壊するような仕組みの物語って多いなと思う。
雨や雪は「自分の意志で操作できない事象」
として何かを妨げたり
運命を作用させるように描かれている事が多い。

たまたま降って来た雨で出会う二人とか、
雪で乗るはずのバスに乗れなくて
すれ違う人たちとか。
「雪が降ったら告白しよう」と決意したりね。

そういうものが好きだから、
自分の人生に振る雨や雪も好きでいる気がする。

色んな映画や漫画や本を思い出すし、
時に降る雪が祝福の様に思えたり、朝起きて歩く世界をガラッと変えてくれたりするから。



雨が沢山降っていると、水の音に囲まれてまるで溺れているような気持ちになる時がある。
そんな時はたいてい辛く苦しい気持ちを元より持っていて、そこに雨が降ったものだからなぜか陰鬱に感じてしまい
部屋に閉じ込められ、
どんどん息ができない苦しさを見せしめのように味わわされているように感じるのかもしれない。

私は「結婚がしたい!!!」と強く意気込むタイプのマインドで生きてこなかったのだけれど

そんな私でも「結婚したいかも」と思う瞬間というのは年齢と共に増えて来て、
その代表格となるのが「雨の日」である。

「ってことは年中割と結婚したい感じか?」と思いきやそこには度合いというものがあり、
私が「こんな時に誰かが横にいたらいいな」
と思うのは打ち付けるような強い雨や風の音を、家の中で聞いている時だ。

それは何故だろうかと、考えてみると
自分の部屋の外の音をあまりにも強く聞かされている時、自分のいるこの部屋が「外の世界の一部である」と突然実感するからなような気がする。



それまではあくまで
自分の目から見えた世界や、
目線の延長を「世界」としており、
自分がどんな状況だか認識しておらず
外の大きな音を聞いた時に自分を客観的に俯瞰し無意識に世界を相対的に捉える瞬間があるように思う。

その瞬間、きっと私は初めて少しの寂しさを覚え、不安を感じているんだろう。
いつもは自分の意志でどこにだって行けるような気がしても、あまりに強い雨や風では行きたい場所に行けそうにない予感がし、
それに連なり「もしも危険が迫っても、私はここから動けないのでは」と焦燥も覚える。

そのすべてを
無意識ながらに自分で理解していて、
心が「誰か隣にいたらいいのに」と感じ始める。 

別に守ってもらいたいと思う訳ではないけれど、誰かと「雨すごいね」って
紅茶やコーヒーを飲んだり

「どこにも行けないからこれを見ようか」
って懐かしい映画を観たり、
普段はしない遊びなんかをしたい。


このすべてを鑑みて、
あまりに孤独で寂しさに耐えられないような時期が続けば「雨は嫌いだ」と言ってしまうのかもしれないな。


とある数学者が
「数学が苦手な人は定点を動かそうとする」
と言っていて、「ふうん」と思った事がある。

これは、「どうにもならないことを、抗っても意味がない」という事だと解釈しているのだけれど

私の中で雨や風、
雪なんかがそれに相当している。



宇多田ヒカルの「Wait&See ~リスク~」という曲が好きで、というのも

歌詞の
「変えられないものを受け入れる力そして受け入れらないものを変える力をちょうだいよ」
というものが堪らなく好きだからだ。



この曲を初めて聞いたのは小学生の頃だけれど、大人になった時に突然、
今まで音の響きとして認識していたこの言葉を、

言葉として意味を理解した時に
「変えられないものを受け入れる力」って、
考えた事がないけれど人生に必要がありすぎて、
私にはその力が非常に足りない気がした。

私は「仕方がない」と言うのが嫌いで
「どうしようもないじゃん」って
人からなだめられた経験が嫌なくらいある。

まあ人によって「どうしようもない」
の粒度は異なるので、
私は「いや、どうしようもなくないじゃん」
と思って苛ついている時もあるが

結構本当に「どうしようもないじゃん」
を受け入れられない時がこの人生では多い。
でも私は数学は得意であったのは不思議だ。



「変えられないものを受け入れる~」
という言葉は、
実はキリスト教の由来があるらしい。
私は何かの映画の祈り言葉で聞いて
それを知った。


何と言うか、本当に懐の深い言葉だよな。
昔から人に言い伝わってきただけのことはある。


という経緯を経て、
私の中での

「雨や雪は嫌いじゃない」
「雨とか雪で怒らない」

自分と言うのは

「変えられないものを受け入れる」
事ができている、
一つの事例であり成功体験なのである。

「雨や雪で怒っても仕方がない」
という、数学の「定点なんだから」
という意志でもあるが、

どちらかというと
「雨とか雪にもいい所あるじゃん」
という気持ちも強いので、
もしかしたらB'zの曲の歌詞
「たまにゃ海も山も人も褒めろよ」
の方の思想寄りかもしれない。

物事には色んな側面があるし、
別に全部が悪くないし、
雨や雪で困ることってそこまで私の中で重要でないというだけかもしれないけれど。


にしても宇多田ヒカルの
「Wait&See ~リスク~」の
「変えられないものを受け入れる力」に続く
「そして受け入れらないものを変える力をちょうだいよ」は、堪らないな。

「受け入れらないものを変える力」って、
まさに自分が目指している事かもしれない。



「受け入れられない」って思った瞬間って
自分の器の小ささを感じてしまって、
それが即ち自分の世界の小ささにも思えてしまう時があって嫌なんだろうな。


でも、でも。

でもでもカントリーマアムがどんどん小さくなっていくのが、私は受け入れられないよ。

もう何年も前に話題になったことなのに、
カントリーマアムを食べる度に
悲しくなってしまう。


本当に、本当に小さい、
悲しいくらい小さい。
なんでこんなに悲しいんだろう。
日本の物価が
地味に上がり続けている事も悲しい。

頑張ってお金を稼げるようになっても、
どんどんお金が必要になる事が悲しいのかな?
きりがねえよ、と思わされる。

カントリーマアムに関しては
「もう二度と戻れない時代」
を思い出し過ぎて悲しいのかもしれない。



だって多分、
もう大きくなる事なんてないでしょ。
今後も小さくなっていくだけでしょ。

悲しいよ。エーン。


どうしよう、
冒頭も結論も

「悲しい」

の文章になってしまった。



たまにはいいか。



雨とか雪で怒んなよ!大人!




でも
天気に本気で怒ってるじいさんとかばあさん、


よく考えたら結構好きだな。



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