病院の待合室で
私の夫は、大病を患い3度の手術を受けた後、
肺と大腿骨に病変が見つかり抗がん剤治療を続けています。
3週間に1度、検査と点滴を受けるために都内の病院へ通っています。
抗がん剤治療を始めた当初は、副作用や点滴後の体調不良を心配して、
毎回付き添っていました。
臨床腫瘍科の待合室は、朝一番から予約の患者さんでいっぱいです。
受付を済ませて血圧と体温を測り、
指示された通りに採血と検体を提出して待合室に戻ります。
10名ほどが座れる椅子が並ぶ待合室を見渡して、夫と並んで座ります。
ここの待合室は、独特な緊張感があります。
ここに居る人は、みんな癌患者なのです。
まだまだ元気そうな人も居ますが、やせ細った人も居ます。
副作用の出方も、人によって違うのかも知れません。
「あぁ、今日も満員だねぇ! 座るとこあるかい?」
大きな声で付き添いの女性に話し掛けながら
静まり返った待合室に入ってきたのは、小柄な高齢男性でした。
付き添いの女性に促されて、二人は私たち夫婦の真後ろに座りました。
「そうそう、表参道のいつもの店、昨日は混んでたんだよ。
まぁ、店にしたら良いことなんだけど何だか落ち着かなくってね。
あれじゃあ、ちょっとなぁ。」
高齢男性は席に着くなり、連れの女性に大きな声で話し掛けます。
連れの女性は、小さな声で相槌を打って聞いています。
「あそこのオーナーとはもう永い付き合いだけど、
俺が行ったらいつも一番良い席あけてくれるのに、
昨日はオーナーも居なかったんだろうな。」
「そうでしたか。」
「ほら、うちのリビングに置いてる置物あるだろ?
この前、○○が来て欲しいって言うんだけどな。」
「そういえば、○○の事務所の前に新しい店ができただろ?
あそこはどうかね?」
「まぁ、□□なんて、今じゃあ議員先生だけど、
昔は使い走りだったんだよ。」
男性の話は、一向に終わりません。
連れの女性は静かに相槌を打つだけですが、
次から次へと別の話を始めます。
私がトイレに行って、
戻ってくる廊下まで男性の声はよく聞こえていました。
待合室の外の廊下にあるベンチに空席があるのを見付けると、
座っている主人に言いました。
「あっちの椅子空いてたよ。ここ、うるさいからあっちで待とうよ。」
私は、高齢男性に聞こえるようにそう言って、
自分のバックと夫のリュックを手に取りました。
夫は大腿骨に問題があり、
杖を使っているので外出時はリュックを使っています。
高齢男性は荷物を手に夫を促す私を眺めながら、
連れの女性と顔を見合わせて、
「あんな荷物持って。遠くから来る人も居るんだねぇ。」
一瞬、カチンと来ましたが、ここは聞こえない振りをして
待合室の外の廊下に夫と並んで座りました。
高齢男性の話し声は、その後もずっと聞こえていました。
3週間に一度の通院では、
待合室で見かける顔ぶれも大体決まっていました。
皆さん同じ先生にお世話になっているのだから、当然と言えば当然です。
時々、初めて見かける人が居る時は、その人の診察時間は長くなります。
抗がん剤治療を始める時は、私と夫も医師に色々と質問しましたが、
夫の主治医は丁寧に答えてくれました。
ある時、病院側の都合で診察室が変わったことがありました。
臨床腫瘍科のフロアの1つ下の階で、
複数の受診科が混在する大きな待合室でした。
フロアの中心に大きな待合室があり、
それを囲むように医師の診察室が並んでいます。
私と夫は主治医が居る番号の診察室が見える位置で、
呼び出し番号が映し出される画面の前に座りました。
50人は着席できるくらいの待合室には、
空席はちらほらあるだけで多くの人が座っていました。
ほとんどの人は
本を読んだり、スマホを見たり、静かに目を閉じて座っています。
時々、声をひそめて話す人はいますが、
これだけの人数が居る場所とは思えない静かな空間です。
「あそこ、座れるね。いやいや、全く。
今日はあっちこっち行かされて大変だねぇ!」
静寂を破って、あの高齢男性の声が聞こえました。
私と夫の斜め後ろの席に、いつもの付き添いの女性と並んで座ります。
「銀座の仕立て屋がさぁ、新しいの、作りませんか?なんて言うんだよ。
どんなのが良いかなぁ?」
「スマートフォンにしてくださいって言うから買ったんだけどさぁ、
ありゃ不便だね。」
「△△から電話があってさぁ、麻布の交差点の所のビルあっただろ?
あそこで何かやりたいらしいよ。」
高齢男性は、今日も絶好調です。
一向に終わらない男性の話し声が、フロア全体に響いています。
私の斜め前に座る女性が、
声の主を見ようと振り返ってから隣の男性に耳打ちしています。
試験前の図書室のような静けさの中で、
高齢男性の話し声はその後も延々と続きます。
私は夫とうんざりした顔を見合わせて、ため息をつきました。
もう、我慢できません。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?